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教授贅言
「続・空に昇る」

慶應義塾大学産婦人科 教授、内閣官房参与 吉村 泰典

 

 救助隊員にしっかり抱かれて体が宙に浮いた。ヘリの下から伸びたロープは20m位であったろうか。下を見ると、吉田先生が強風に飛ばされそうになりながら、一生懸命シャッターを押し続けている。言われたことを忠実に守る男で、また好きになった。増﨑教授は心配そうな顔をして私の方を見ている。ものの20秒ほどであったであろうか。少し不謹慎ではあるが、実に気持ちの良い遊泳を楽しんだ。不思議なくらい気持ちは落ち着いていたが、それはおそらく救助隊員の優しい言葉によるものであったと思う。“大丈夫! 大丈夫! 大丈夫!”と何度も何度も諭してくれた。足の痛みはすっかり忘れていた。

空中に停止したヘリに向かって昇っていく
空中に停止したヘリに向かって昇っていく

 ヘリの昇降口のところまで上がってから少し時間を要したが、私を吊り上げた救助隊員は機内にいる別の2人の救命救急士と協力して、私を担架の上にのせ、機内へと誘導した。機内では直ちにバイタルサインがチェックされ、担架の上で右足首がシーネで固定された。固定に要した時間は3分前後であり、直ちにアイスノンで患部が冷却された。実に手際が良く、固定後は足にはまったく痛みを感じなくなっていた。この間、体調のチェックとともに現住所や職業、負傷時の状況などが聴取された。至って元気な私に救助隊員の方々はびっくりされていたようであった。とにかくヘリの音は凄まじかったが、隊員の方々は逆に大変優しかった。彼らの適切かつ迅速な行動、心温まる言葉や優しさに触れ、負傷したことも忘れるほど心地好い思いがした。

ヘリに収容される
ヘリに収容される

 15分間位の飛行であったか、ヘリが近くのキャンプ場に着地した。直ちに待機していた救急車の担架に移り、ここでもまたバイタルのチェックがされ、ヘリの中と同様の質問を受けた。救急隊員は質問する際も“何度も何度も同じことを訊いてすみません”と謝ってくれた。ヘリの隊員と同様、救急隊員も大変優しかった。彼ら隊員はどのような教育を受けているのであろうか。患者に対し、我々医療従事者は果たしてこのように優しく接しているだろうか。質問が終わった頃、平木先生も到着した。実はヘリを待つ間に1人は早く下山し、救急車とともに行動し、ヘリの到着を待つことが決定されていた。平木先生がその役を引き受けていた。大変な事になってしまったと、彼の顔は強張っていた。通常であれば、救急車で近くの整形外科病院に送られることになっているが、痛みもなく、シーネで固定されているので、長崎大学病院までの移動は可能と考えられたため、平木先生と相談し、長崎大学まで帰って診療を受けることにした。その旨を救急隊員に告げ、ヘリが着地したキャンプ場から登山口の長者原まで平木先生運転の車で移動し、増﨑教授一行と合流することにした。その間10分間ほどであったが、平木先生は一言も発しなかった。
 下山してきた増﨑教授が私のところに来て、“傷は痛みますか。何か食べ物を買ってきましょうか”と声をかけられた。そういえば、山で負傷して既に3時間ほどが経過していた。この間アドレナリンも大量に分泌されていただろう。急に空腹感を覚えた。増﨑教授は“おにぎりとお茶でも”と言われたが、私の方から、皆も緊張していても空腹であることは間違いないので、どこかレストランに行こうと申し出た。増﨑教授はびっくりされたが、私の様子を見て安心されて胸をなでおろされた様子であった。そして、皆で焼き肉レストランに行くことになった。

焼き肉係に任命された吉田先生
焼き肉係に任命された吉田先生

 それまで足はシーネで固定されて痛みを感じなかったが、肩を借りて歩行する際に少し荷重が懸かると足に痛みが走った。しかし、この時は足首が骨折しているとは全く考えていなかった。おそらく捻挫のひどいものくらいと考えていた。私の方から増﨑教授に“落ち着いたのでビールを飲みましょうよ”と誘った。“えっ、ビールですか?止めておいた方が良いのでは。”と一応やんわりと断られたが、“いいじゃない。皆も疲れたのだから。”と言うと、あっさり賛同された。増﨑教授と私は中ジョッキ2杯を一気に飲み干した。よく帰還できたと皆で喜び合い、とにかくよく食べた。実に美味であった。

うまい!
うまい!

 平木先生の運転で大分から長崎に戻ることになった。2時間程のドライブであったが、平木先生はほとんど何もお話にならなかった。大変なことが起こったという憶いと、私の介助に憔悴しきっておられたと思う。運転するのも大変であったと推測するが、無事長崎大学に着くことができた。既に長谷川先生からの連絡が長崎大学に入っており、直ちに救急外来での手続きを済ませ、放射線科で右足首のX線写真を8枚撮影した。私はまさか骨折しているとは考えておらず、その旨を増﨑教授に伝えていたので、彼も大変なことになったとは思われていたとは思うが、最悪の事態は予想されていなかったのではないだろうか。
 忙しい救急患者の合間を縫って、整形外科医の古川医師が優しい笑顔で私を迎え入れてくれた。“やはり大丈夫だったか。骨折はしていないな。明日の講演はこれでできる。夜の宴会も大丈夫だな。”と思っていた。すると、“先生、見事に折れていますね。右足関節の腓骨の骨折です。”と古川先生は淡々とした口調で話を続けた。“ この骨折であれば、ギプス固定よりは手術の方が良いと思います。ギプスだと偽関節になる恐れがあるので、手術をした方が早く治りますよ。今から手術しますか。” この時の増﨑教授の顔は忘れられない。これまでの長い付き合いの中であのような驚きと苦悶の表情は見たことがなかった。“大変な事態になってしまった。これからどうしたらよいのだろうか。”そんな思いであっただろう。

右腓骨の骨折
右腓骨の骨折

 一方の私は、明日19日の長崎県産科婦人科学会での特別講演は腰を掛けてでもできるが、直ちに手術を受ける訳にはいかないと考えていた。20日には内閣府での重要なミーティングがあり、22日には日本産科婦人科学会の小西理事長に少子化担当の森まさ子特命大臣と会ってもらう機会を設定していた。そこで慶應大学医学部の同級で整形外科教授をしている戸山常任理事に電話をして指示を仰いだ。古川医師の手術が必要であるとの判断は正しいとのことで、とにかく早めに東京に帰って月曜日(20日)に診察をし、決定しようということになった。
 方針が固まり、土曜日の夜の宴会に出掛けるつもりでいた。この夜は長崎県の産婦人科学会の重鎮とワインを楽しむことになっていたが、古川先生から“ホテルで安静をとるか、このまま明日まで入院するかを決めてください。”と言われ、アルコールは厳に慎むように忠告された。皆さんにお会いできるのを楽しみにしていたため、宴会に行けないのは大変残念であったが、明日の講演は通常通り行い、責任を果たしたいと考えていた。東京での会議のため旅行にはご一緒されなかった三浦准教授が診察には付き添ってくれていた。終始心配そうな顔で私の方を見つめていたが、突然“先生、最終便が間に合いますので、東京へお帰りになったほうがよいのでは”と切り出した。増﨑教授も私も全く考えていない提案であったが、増﨑教授も三浦准教授の意見に賛同され、講演をキャンセルして急遽帰京することになった。
 長崎大学の古川先生は、私のために足関節固定用の固いブーツのようなハイテク器材を用意して下さった。このブーツは大変な優れモノで、装着すれば松葉杖を使わなくても杖だけで歩行が可能であった。慶應大学の整形外科の先生方はご存知なかった。空港までは三浦先生が送って下さった。長崎空港では車椅子が用意され、日本航空の乗務員にも大変優しくして頂いた。機内では足を伸ばすことができるシートを準備して下さり、全ての乗客が降りた後、最後にタクシー乗り場まで車椅子で送って下さった。空港で家内の顔を見た時はほっとした。おそらく、増﨑教授をはじめとする医局の先生方も、折れた足で講演する私の姿を見たくなかったのであろう。夜遅く、渋谷のわが家に着くことができた。とにかく人の情けと優しさを感じた長い長い一日であった。

足関節固定用のブーツ
足関節固定用のブーツ

 20日月曜日に、慶應の整形外科で戸山教授と会い、須田講師を紹介され、手術をして頂くことになった。その時の戸山教授の“吉村、これは手術だよ。” と嬉しそうに笑って語りかけた言葉が今でも忘れられない。その手術日を決めるのが大変であった。5月22日午後2時に私は大臣と面会しなければならない。一方、須田先生は23日から日本整形外科学会に出席するため、22日の夕方東京を離れることになっていた。22日の午後大臣との面会が終了後病院に戻り、午後5時から手術が行われた。全麻下での手術であり、何の問題もなく、滞りなく終了した。全身麻酔から醒め6時半頃帰室し、増﨑教授に手術が終了した旨を自ら電話した。安心されたご様子であった。その夜の足の痛みはそれほどでもなかった。23日早朝須田先生は私の回診を済ませ、学会に出掛けられた。
 同僚の戸山教授は少しゆっくりしなさいと諭してくれたが、退院日は27日と決めた。というのも私が座長を務めている厚労省の会議が27日夕方にあり、どうしても出席しなければならなかったからである。23日には増﨑教授がわざわざお見舞いに来てくださり、大変感動した。手術も無事終了し、ほっとされた様子で私も安堵した。多くの方々がお見舞いに来てくださった。退院した週は、日本産婦人科学会理事会や福島での公開シンポジウムなどをはじめ、重要会議が目白押しで、まったく休息できることはなかった。6月に入っても、安倍総理訪問や地方での講演が4回もあり多忙を極めたが、何とか乗り切ることができた。よく1人で行動できたと思う。自らの回復力にも驚いたが、我が国は移動手段において障害者への配慮が足りないとも感じた。

九重山中腹での増崎教授とわたし
九重山中腹での増崎教授とわたし

 今回の登山での事故を経験し、人の情けや優しさが身にしみた。畢竟するに人間は一人では生きていけないということである。私にとっては生涯で初めての手術であったが、それは掛け替えのない経験であった。この一連の出来事に関わって下さった全ての人々に哀心より感謝の意を申し上げたい。今回の殊勲賞は、何といっても長谷川少佐である。彼女の沈着冷静な行動があったからこそ、山から帰還することができた。彼女が焦燥に駆られることはあるのだろうか。やはり女性はすごい。敢闘賞は吉田、平木両先生である。私の両肩を支えながら足元が悪い山道を下ってくれた。30m位下るのも想像を絶するほどの大変さであった。彼らの支えが無かったらと思うと背筋が寒くなる憶いである。もちろんMVPは増﨑教授である。彼の心配りは私の一生の宝物となった。行動と理想が背馳する人が多いこの世の中、彼の人間性には感服した。報恩の念を禁じ得ない。完 10.03