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教授贅言
「椿姫に会いに行く」

増崎 英明

 

 七月のパリは暑かった。湿度がないだけ爽やかではあるが、日差しが肌を刺す。パリの三日間をどう過ごすか。初日はベルサイユ宮殿、三日目はルーブルとオルセーの美術館。子どもたちと相談して、それだけは難なく決まった。二日目は私に裁量を任せるという。自然史博物館かモンマルトル。自分に素直に聞いてみて、後者に決めた。地下鉄に乗る。パリの地下鉄は、ロンドンのそれよりは大きい。だが似たくらいに古びてはいる。オベール駅からシャルルドゴールエトワール駅。そこで乗り換える。私はとんでもない方向音痴である。一駅ごとに慎重に駅名を確かめながら、プラスドクリシー駅で降りた。看板を頼りに15分ほど歩くとモンマルトル墓地に着いた。墓地の入り口辺りには、観光客らしい外国人が数人いて、そこにある看板を見ている。しばらくは空きそうにない。トイレを探して歩いていると、派手な墓を見つけた。墓碑には“DALIDA 1933-1987”とある(写真1)。頭は思わず「だれだ?」と反応したが、この場所で駄洒落は不謹慎だし、笑われそうなので、子どもたちには言わないでおいた。
写真1:ダリダの墓
写真1 ダリダの墓
ダリダはフランスの歌手・俳優。エジプト生まれ。モンマルトルの墓地でもっとも派手な墓であった。この日も若い男性が花を供え、水をまいていた。

 さきほどの看板に戻ると、観光客はいなくなっていた。看板には、広大な墓地の区画が書いてあり、それぞれの場所に、そこで眠っている有名人の名前が記されている。親切なことである。ときどき東京の墓地にも行くが、こういう親切はありがたい。そして、いかに多くの人が墓巡りを愛していることかといつも思う。谷中の辺りへ行くと、老人たちが集団で墓巡りをしていたりする。自分たちももうすぐだから気になるのだろうか、と思ったりする。一方で、誰に迷惑をかけるわけでなし、墓巡りは悪くない趣味だとも思う。外国人も日本人も同じような趣味の人がいるのだ。老人趣味は、盆栽に始まり、水石が続き、紙切れ(教典)になって、墓で終わると聞いたことがある。外人も草木は好きだし、墓も好きなのだろう。私はどれも好きである。

 さて、話を看板に戻す。私は目をこらして、まずアレキサンドル・デュマ・フィスALEXANDRE DUMAS FILSの墓の在処を捜した。看板が光りを反射して見えにくい。それに暑さで目がかすむ。苦労しつつも、彼の墓が第21区にあることを確認した。さて、次は肝腎の椿姫である。そこで私はハタと困ってしまった。椿姫の本名を失念したのである。カバンに『椿姫』はあるので、主人公がマルグリット・ゴーティエであることは分かるのだが、彼女にはモデルがあった。若き日のデュマ・フィスが恋に落ちた高級娼婦がいたのだ。デュマ・フィスは彼女を一目見て、それ以来忘れられなかった。その数年後、19歳になったデュマは20歳の彼女とパリの劇場で偶然にも再会した。『三銃士』『モンテ・クリスト伯』などで知られる大作家であった父親は、アレキサンドル・デュマ・フィス。親子はまったく同じ名前である。区別のために、親を「大デュマ」子は「小デュマ」と呼ばれた。名前通り、大デュマは豪快にして闊達、あちらの方も盛んで、五百人の子があると豪語していた。小デュマは、五百人のなかのひとり、それも私生児であった。のちには認知して同居したが、小デュマは大デュマの掌の上で育った。居候の身では、一年で10万フラン(およそ1億円)を稼いだという当時の高級娼婦とつきあえるはずはない。彼女は田舎の出身らしいが、眉目優れ、仕込まれたものとはいえ教養があった。生来の知性にも恵まれたのであろう、本も読めば、ピアノも弾けた。湯水のような放蕩で幾人もの貴族を没落させたといわれている。花屋からは、バラよりも椿を好んで届けさせた。劇場では、月のうち25日は白椿、5日間は赤椿を桟敷に飾っていたという。椿を好む理由を尋ねると「バラは私には匂いが強すぎる。」と答えたそうである。確かに椿には匂いがない。老貴族に囲われ、時間に余裕があったせいか、金持ちでもないデュマ・フィスとの浮き名を流した。この恋は二年と続かず、彼女の心は華麗な作曲家リストに奪われてしまった。デュマ・フィスはその後も彼女のことが忘れられなかった。父親とスペインあたりにいたときに、彼女が肺病であることを知って、見舞いの手紙を出している。しかしパリへ戻ったときは、彼女はすでにこの世の人ではなかった。享年は23歳であった。彼女の死を知った小デュマは激しく慟哭した。そして、その年のうちに、彼女を主人公とした小説を書き始めた。出会い、恋の駆け引き、そして一時は理解し合い結ばれるが、父親の反対にあって挫折、彼女の死、その経過を、現実と一冊の本を下敷きにして一編の小説に仕立てた。一冊の本とは、アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』である。マノンは清純にして悪女、いわゆる主人公を破滅させる運命の女性ファムファタールの元祖である。デュマは、このよくできた小説を換骨奪胎して、わずか一月で『椿姫』を書きあげた。
『椿姫』が上梓されると、彼は一躍時代の寵児となった。1848年のことである。気を良くしたデュマ・フィスは戯曲に書き替え、さらにそれを劇場で見たヴェルディが誰にも理解できるメロドラマに作りかえた。それが現在まで演じ続けられているオペラ『ラ・トラビアータ』である。1939年には映画化され、グレタ・ガルボが彼女を演じている。こうして、アレキサンドル・デュマ・フィスの名は、『椿姫』ただひとつをもって現在まで記憶されることとなった。さて椿姫の本名を思い出せないまま、看板を目で追っていると、”DAME AUX CAMELIAS”という語が目に入った。CAMELIASカメリアは日本原産の椿属Camellia japonicaのこと(ツバキ、サザンカ、チャなど)である。これこそ椿姫の墓の在処に違いない。これで椿姫に会える。私はそこへ急いだ。第15区である。そして発見した(写真2)。墓碑には以下のような文言が刻まれていた。
     
ICI REPOSE
ALPHONSINE PLESSIS
NEE LE 15 JANVIER 1824
DECEDEE LE 3 FEVRIER 1847
DE PROFUNDIS
写真2:椿姫の墓
写真2 椿姫の墓
長さ2メーター、幅および高さは1メーターほどもある大理石造りの立派な墓であった。とても一娼婦の墓とは思われない。生花が供えてあった。

 フランス語なので正確には分からないが、椿姫の本名はアルフォンシーヌ・プレシー、1824年1月15日に生まれて、1847年2月3日に死んでいる。デュマの『椿姫』が翌年の1848年に出版されているから、彼女が死んで衝撃を受けたデュマが一気呵成に書き上げたという噂は本当だろう。写真を撮ったときには気がつかなかったが、今見ると、墓の正面には彼女の肖像があり、その周囲にいくつか口紅の跡が残っている。彼女を偲ぶ人達(むろん女性)が残したものと思われて、ある種の感慨があった(写真3)。椿姫、小説のなかのマルグリット・ゴーティエは、19世紀の半ばに生きていた。アルフォンシーヌ・プレシーという親からもらった名前を持って、現実の世界を生きていた。椿の花を愛し、デュマ・フィスを愛し、浮き名を流しながら生きていた。そして、わずか23歳の若さで散ったという現実がそこにあった。
 紙面も尽きた。デュマ・フィスの墓については簡単に記すことにしよう。椿姫の墓から5分ほど歩いた場所にそれはあった。椿姫の墓は娼婦のものにしては立派な墓と思ったが、デュマの墓は比較にならない見事さである(写真4)。71歳まで生きたフランスの文豪は、妻の眠る墓ではなく、遺言により若き日の恋人であった椿姫の近くに埋葬された。死後の永遠の時間を、アルフォンシーヌ・プレシーの近くで過ごすことを決めたのである。そこにどのような思案があったか、それを問うことは顕界に住む私たちの忖度することではない。幽界のことは地下に眠る人達にまかせることにしよう。
筆者の『椿姫』に対するこだわりの理由についてはいつかまた。 つづく

写真3:椿姫の墓(正面)
写真3 椿姫の墓(正面)
椿姫の肖像画が置かれていた。岩波文庫の表紙にある絵に似ているが同じではない。その場では気付かなかったが、赤いキスマークが三つ付いている。

写真4:デュマ・フィスの墓
写真4 デュマ・フィスの墓
小さい家ほどもあるたいへん立派な墓である。モンマルトルの墓地で一番ではないかと思った。暑い日であったが、横臥したデュマは涼しそうに見えた。


参考図書
 1) 『椿姫』デュマ・フィス、吉村正一郎訳、岩波文庫、1934
 2) 『椿姫』デュマ・フィス、新庄嘉章訳、新潮文庫、1950
 3) 『椿姫』デュマ・フィス、朝比奈弘治訳、新書館、1998
 4) 『椿姫』デュマ・フィス、石川登志夫訳、グーテンベルク21、2003
 5) 『椿姫』デュマ・フィス、西永良成訳、光文社古典新訳文庫、2008
 6) 『マノン・レスコー』アベ・プレヴォー、青柳瑞穂訳、新潮文庫、1956