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私が長崎大学産婦人科に来た理由
私が長崎に来た理由
金内 優典

 まさに昭和と平成の切り替わりの時、平成元年に卒業し医師となりました。以来、生まれ育った土地である北海道に尽くすことが当然のように思って25年間産婦人科医師として勉強してきました。この間、たくさんの尊敬する先輩たちや、かわいい後輩たちと出会い、多くのことを学びそして北大産婦人科の伝統を伝えてきたつもりです。いい歳をしてと思われる方も多いでしょうが、齢50を目前にし、「人間50年、下天のうちを比ぶれば…」が頭に浮かぶようになり、またこの4年間は日本産科婦人科学会幹事として本会の業務を拝見させていただく機会があったこともあり、猛烈に外の世界がどうなっているのか知りたくなりました。一個の医師としての自分がどれくらい外の世界でやっていけるものか試してみたくもなりました(卒業以来医局の人事に従ってきましたので、5年以上一つ所で暮らしたことがなく、北海道人の遺伝子にインプリンティングされているはずのジプシーの血が騒いだのかもしれません)。
 九州の地は、私の様に「蝦夷」で生まれ育ったものにとってはまさに知らぬ土地です。中でも古くから海外交易のために開かれていた長崎という土地には非常に惹かれました。学会の仕事をする中で九州の若手医師たちとお付き合いする機会にも恵まれ、そしてまた長崎大学での研究内容について見知る機会があり、50になる前に!と一大決心をして、増崎教授のお許しを頂いてやってまいりました。
 寿命の半分以上をとうに使い切ったこんな自分を教室のみなさんが温かく迎えてくださったことに心の底から感謝する毎日です。もちろん自分自身この教室で学びとりたいことも山ほどあります、同時に自分の持っている知識や経験を教室の若い皆さんに少しでも役立てていただければこんなにありがたいことはありません。また、この歳になると体にまとうものも多くなるのは当然で、こんな無鉄砲な人間を許してくれる家族にもこの場を借りて感謝の意を捧げさせていただくことをお許しください。
 趣味らしい趣味もなく生きてきましたが、自分のわずかな嗜好から引用すればワグナーの「Der Fliegende Hollander」を耳にしながらヘッセの「デミアン」を目にしている気持がしています。この教室ならば医師としての自分のなにかがつかめるのではないかと思っています。この原稿を依頼された時はいろいろ考えましたが、結局脈絡なく「心にうつりゆくよしなしごと」を記していくことになりましたことをお許しください。実際はそんなに堅苦しい人間ではございませんので、長崎大学産婦人科同門の皆様におかれましては向後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
東京生まれの東京育ち、元3等陸佐が長崎大学産婦人科へ入局した理由
長谷川 ゆり

 まずは私の履歴について説明する必要があると思います。自己紹介にも書きましたが、東京の下町である葛飾区金町で生まれ、地元の小中学校を経て、桐蔭学園高校を卒業後、防衛医科大学校(埼玉県所沢市)へ入校しました。初期研修、専門研修の後、平成20年10月に防衛医大研究科に入校しました。当初は臨床研究を中心に研究をしていましたが、基礎的な研究をしたいと思っていました。ちょうどその頃、当時の直属の上司が長崎大学産婦人科教授の増崎先生と話をする機会があり、研究を一緒にさせていただけないかとお願いしたことが最初のきっかけでした。平成21年7月に当時講師でいらした三浦清徳先生の講演を聴きに行き、講演終了を待って三浦先生の論文を持ってお声かけしました。「防衛医大の長谷川と申します。先生の論文を読みました。先生のされている研究に興味があるので教えていただけませんか。」全く面識もなく、突然の告白(?)であったにも関わらず、丁寧に対応していただき、連絡先をいただきました。メールのやりとりは2,3回であったと思います。早速9月の第1週目に見学に行くことが決まりました。月曜日から金曜日まで病棟業務、カンファレンス、研究室の見学をしたり、実験手技も少しさせていただきました。そして、夜は毎日のように歓迎会です。見ず知らずの人間にここまでしていただけたことが驚きで、長崎に来ることにもう迷いはありませんでした。
 平成22年4月から平成23年3月まで、国内留学という形で研究を進めました。臨床のお手伝いをしながら三浦清徳先生のご指導の下、実験をしていました。この時には大学院生が他に3人おり、毎日遅くまで一緒に実験をしていました。私より若い先生たちですが、実験に関しては先輩です。いろいろなことを教わりながら同じ時間を過ごせたことは本当に貴重で、その先生たちとは今も強いつながりを感じます。
 1年間はあっという間で、論文作成半ばで、平成23年4月に母校へ戻りました。戻ってからは外来、手術に加え、論文を仕上げたり、後輩医師や学生の教育に携わりました。5月、元々演題を登録していた九州地方部会に参加し、1ヶ月ぶりに長崎の先生たちと沖縄で再会しました。みんなが市場で飲んでいるところにあとから参加する形になったのですが、私を見つけるやいなや、「少佐!」といって(私のニックネームは留学中から当時の階級である3等陸佐→少佐でした)迎え入れてくれた温かい雰囲気は忘れられません。「あれ?ここがホームだったっけ?」そう思いました。母校に帰り、教育や臨床業務に特に不満があったわけでは無かったと思います。ただ、研究も臨床も、もっと新しいことをしてみたい、それを新しい環境でするには最後のチャンスかもしれない、という強い気持ちが私の中でふつふつとわき上がって来ました。そしてそれをするなら素晴らしい仲間がいる長崎で、という思いが日々強くなりました。
 こちらに来るまでには様々な葛藤がありました。自分のことはさておき、母校の先生方には本当にご迷惑をおかけしました。しかし、新しい環境で自分を試したい、もっといろんなことを経験したいという熱意をご理解いただいて最後は励ましの言葉で送り出していただきました。
 このような経緯で今に至ります。入局してから他大学出身であることや長崎出身でなかったことで不利を感じたことは一度もありません。長崎大学産婦人科の医局員になってしまった今では自画自賛になってしまいますが、長崎大学産婦人科の臨床、研究、教育のレベルの高さは本物で、そのどれが欠けていたとしても私はここにいないと思います。でも、私にとって本当の長崎大学産婦人科の魅力は、たとえ目には見えなくとも、医局の居心地の良さと懐の深さ、そして一人一人の先生の人柄だと思っています。
最後に、長崎と縁もゆかりもない学生さん、先生へ。何も迷うことはありません。不安に感じることはありません。どうぞ、話を聞きに来てください。長崎大学産婦人科はいつも扉を開けて、皆さんを待っています。そして、近い将来、私たちの仲間として皆さんと一緒に仕事が出来ることを楽しみにしています。
九州生まれの産婦人科医が卒後11年目に長崎大学産婦人科に入局した理由
谷口  憲

 私は、佐賀県武雄市に生まれ、高校まで地元で育ちました。山口大学医学部に進学するため、九州を離れました。大学卒業当時は、まだスーパーローテーション制度が始まる前であり、出身大学に残るか、地元に帰るかで悩みました。当時は、あまり地元に帰るという意識が強くなく、先輩、後輩が多い横の繋がりが重要だと考え、山口大学産婦人科に入局しました。入局後の最初の2年間を大学病院で研修し、その間に麻酔科3か月、NICU3か月をローテートしました。その後、県内のNICUを有する拠点病院勤務、大学院に進学し医学博士号の取得、地域での一般産婦人科としての勤務を経験することができました。卒後10年が経過し、これから大学病院、あるいは県内の拠点病院でバリバリ働くかを考える時期になっていました。ちょうどその頃、自分の周囲の環境を見つめ直す機会がありました。これまでの私は、1人の産婦人科医として、仕事を中心とした生活を送っていました。しかし、それだけではなく、2人の子供をもつ父親であることを自覚しました。上の子が小学生中学年となり、家庭を両立してこその産婦人科医であるべきだという意識が強くなってきました。そこで思いたったのが、地元に帰るという決断です。長崎大学と佐賀大学のどちらの医局にお世話になるか非常に迷いました。しかし、長崎大学の増崎教授から、「そがん、心配せんでよか。まかせんね。」と言われたとき、長崎へ入局させて頂こうと決意することができました。その後、実際に医局長、副医局長の先生には親身に相談にのって頂きました。
 平成25年4月、長崎大学病院勤務で新しい1歩がスタートしました。最初は、種々の手技における作法の違いにとまどうこともありましたが、すぐに慣れ、医局の雰囲気にとけ込むことができました。長崎という歴史的な土地柄、自分以前にも途中から入局された先生が3名いらっしゃることに起因しているのではないかと思われます。また、長崎大学の医局に入局してよかったと思えることがあります。診療がグループ制を採用していること、大学病院では産婦人科専門医取得後のサブスペシャリティーを取得できる環境にあるということです。
 これまでは、主治医制しか経験したことがありませんでしたが、グループ制だと、貴重な症例の経験をグループ員で共有することができます。また、大学病院には多数の専門医が在籍し、研修指定病院となっているため、種々の資格の取得が可能です。現在、8か月が経ち、生殖医療専門医、臨床遺伝専門医を目指して頑張っています。
私が長崎大学に異動した理由
築山 尚史

 私は2003年から2010年まで宮﨑大学産婦人科に所属していました。いつかは故郷の長崎で生活をしようと思い、2010年に長崎大学に入局しました。

 所属する医局を辞め、新たな医局に飛び込むことは、ゼロからのスタートという気持ちがあり、不安であった事を覚えています。予想通り、新天地はこれまでとは文化が異なっていました。これまで常識であったことが常識でなく、自分は非常識なのか?と思うこともありました。しかし、そのような時も、日々のディスカッションの場では自分の意見を自由に述べることができる環境がありました。そして疑問が生じた時はもう一度、教科書に振り返ることで、さらに自分を成長させる事ができていると思います。
 産婦人科とは周産期、婦人科腫瘍、生殖内分泌、女性医学から成りますが、長崎大学はいずれの分野においても充実しています。私自身も不得意な分野がありましたが、まんべんなく学べる体制があり、日々成長している自分を感じています。
 また、研究の分野においてもアクティビティーが高い施設です。これまで研究をおこなった事はなかったのですが、楽しく研究に取り組んでいます。研究についてはこちらを参照して下さい。

 私と同じように他施設から長崎大学に異動してきた産婦人科医が複数名いますが、皆、これまで学んできた事を活かしながら、臨床そして研究において輝いています。異動することは、確かに大変な決断です。私自身は新たなスタート地点が長崎大学 産婦人科学教室で良かったと思っています。
長崎大学を選んだ理由
河野 通晴

思い返せば大学に行くつもりなど毛頭ありませんでした。自分の性格上合っていないと感じていたからです。初期研修医時代から同じ野戦病院に勤めてきて、産婦人科医としてある程度の初期対応は出来るぐらいまでになっていました。医師として6年目に産婦人科医として認められる専門医試験に合格し、ひとつの節目と感じていた矢先に長崎大学産婦人科教室の当時の医局長である三浦清徳先生からご連絡をいただきました。これは自分が進むべき道を示しているとその時感じました。実を言うと先々代の医局長から連絡を受けていましたが、私に全くその気がなく無下に断り続けていました。その後増崎教授御自ら出向いていただき歓迎を受けましたが、それに関わらず長崎大学への入局は自分自身を臨床家として更なる高みに導いてくれると特に理由もないですが、何故か確信していました。ただ一つ入局前の長崎大学の事で鮮明に覚えていることがあります。吉田敦先生がシンポジストとして発表されていた癒着胎盤の術中超音波写真です。巨大なスクリーンでカラードプラの迫力ある画像を見せていただき自分の地元である長崎でこんな興味深い臨床の発表をしている先生がいるんだな〜と非常に感銘を受けました。長崎大学の産婦人科は研究ばかりではなく臨床にも力を入れている病院で、自分のこれまでの臨床力が試される機会であり、より学べる環境があると思い余所者でしたが入局させていただきました。

長崎大学の良い点

  1. 教授が怒ること
  2. 診療グループに専門性も持たせないため臨床ばかりしていた自分としては外部から入りやすい
  3. 積極的に学会へ発表、参加をさせてもらえること
  4. 休みがしっかりとれること

などなど

Department of Obstetrics & Gynecology Nagasaki University School of Medicine

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