医学は臨床と研究から成り立っています。臨床から生まれた疑問は研究で解明し、研 究から得られた成果は臨床に還元するというように、この二つは切っても切り離せない関係にあります。医学部卒業者の多くは臨床医または研究者となり日々精進することになりますが、立場は違っていても病気で悩む方々に役立ちたいという目標は共通のはずです。そのため、臨床医と研究者が求めるものは究極的には同じはずですが、それを得るまでに担う役割には異なる点があります。
ここでは、医学の進歩を共に志す先輩の一人として、若手の臨床医や研究者に希望したいことを述べさせていただきます。
先ずは若手臨床医への希望です。
何よりも大切なことは「病気を見て病人を診ず」に陥らないことです。これは、「臨床医は病気に対応できる一医師であると同時に、個としての人格を持つ一 人の患者さんの主治医であれ」と言い換えることができます。そのためには、患者さんの身体的状態、心理・精神状態はもとより、その背景にある社会的・経済的状態も十分に理解し、総合的な援助ができる技量を修得して欲しいと思います。しかし、この全人的医療を実践するには医師以外の医療従事者の方々の力が不可欠です。他の専門家の人達とも協力していける「協調性」も身につけましょう。
しかし、患者さんの「訴え」、「悩み」に真摯に耳を傾け全力で対応しても、患者さんの抱える「苦悩」を完全に取り除くことができないことがままありま す。私は関節リウマチの患者さんを多く診療してきました。現在と違って20年前は生物学的製剤はなく、抗リウマチ薬も数少なく、患者さんの関節の痛みを取り去ることは困難な時代でした。当時、私は医師として最も大切なことは何とかして「痛み」を取り除くことと捉えていましたので、関節の痛みの訴えを聴くだけでそれを取り去る薬がないことによる無力さを感じ、診療の場面から逃げたいとさえ思ったこともありました。しかし、患者さんを診察し続けるうちに、投薬だけが医師の仕事ではなく、正確な診断をつけて患者さんの不安を和らげ、「悩み」に耳を傾けることも患者さんの「心」を癒す立派な医療であることに気が付きました。このことを演繹すると、治療法のない難病で、不幸にして患者さんの命を救うことが叶わなかったとしても、その魂を救う医療はできうるということにもなります。
長崎と縁が深い小説家の遠藤周作氏の奥様、順子さんは「夫の宿題」という著書を出版しておられます。これは遠藤周作氏が肺結核、肝硬変、糖尿病を患った時の闘病記録であると同時に、患者さんの立場からみた医師のあるべき姿について書かれたものです。この本の中に「医師の仕事は人の魂と交わること」と 記してあり、この部分を抜粋させていただきます。「小さな子供がいろいろな栄養をとって、段々と大きくなっていくように医者を志す方々は患者さん達の人間的な苦しみを栄養として、知識を増やし、経験を積み、技術を磨いていくのです。この厳然たる事実をよくわきまえておいていただきたいのです。身体と心は別々ではないのです。1 人の患者の病と立ち向かうということは、その魂にまで手を突っ込むことでもあります。その意味で医師の仕事は小説家の仕事や信者の告解をきく神父の仕事と も共通する部分があると主人は常々申しておりました。そのような観点に立てば、患者は医師にとって自分たちの医療技術を向上させる様々な知識を与えてくれる師であるばかりか、同時に『人間とは』ということを教えてくれる師でもあるわけです。」この文章の中にあるように患者さんは私たちの人間性を涵養してくれる師であります。私たちは病める人から課せられた責任を自覚し、責任を全うするよう努力し、患者さんやその家族、他の医療従事者から信頼と尊敬を得ることができるように心がけ、努力しなければなりません。
次に、若手研究者に希望することについてお話します。
東京大学名誉教授の故冲中重雄先生の言葉に「書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者さんの中に未来の医学の教科書の中身がある」とあります。これは日常診療では、患者さんの臨床症状、身体所見、検査結果など全てにわたって常に疑問を抱き、思考し、真実を貪欲に探求しなければならないというように解釈できます。患者さんの体の中で起こっている現象こそが、動かし難い真実であるわけです。患者さんは、医師にとってかけがえのない医学研究の師であるということを忘れてはいけません。この診療という行為から発生した疑問を探求し、真実をより科学的に明らかにしようとしていくうちに、医師の名称は研究者へと移行していきます。
この医学研究は大きく臨床研究と基礎研究に分けられます。臨床研究は、新しい症候群の発見や患者さんの治療を対象とした患者指向型(patient oriented)と疾患の成因あるいは病態を解明する疾患指向型(disease oriented)との2つに分けることができます。前者は臨床医が診療の一貫の中で研究として携わる場合が多いようです。後者は、基礎研究も一部必 要となることが多く、これに携わるには臨床医と研究者のキメラの様な素養が求められます。これらの研究では理学系などの他分野からの研究者の参入が少な く、まさに医師が行う研究といえます。
しかし、医学の究極のテーマともいえる生命現象の理解を通して病因を解明する研究者を目指す場合は、臨床を離れた純粋な基礎研究に取り組まなければなりません。その際は、国の内外を問わず農学系や理学系の研究者との激しい競争は覚悟してください。勿論、外国の一流の研究者の教室に留学するという積極性 も求められます。
研究は常に成功するわけではありません。むしろ失敗の連続と言った方が良いかもしれません。しかし、挫けてはいけません。観阿弥は「風姿花伝」で「時の 間にも男時、女時とてあるべし」と書いています。これは、人生では運、不運は巡り廻っているという意味です。チャンスは思いがけない時に巡ってきま す。また、幸運の女神はすべての人に平等に訪れます。不運な時期はじっと耐え、必ず運が回ってくることを信じ、常に努力を怠らないようにすることが肝要です。
Serendipity という言葉があります。これはHorace Walpoleが書いた御伽噺「The three princes of Serendip 」の題名から造られた語で、「偶然に幸運な予想外の発見をする才能」と定義されています。勿論、研究の場では努力もせずに単に運良く目的のものを手にできるということはまずあり得ません。しかし、努力さえ怠らなければ目的のものを偶然発見する機会に遭遇することもあると思われますが、それが珠玉なものであると見極めるには、注意深い観察力と洞察力を常々養っておくことが肝要です。幸運の女神には後髪がないので、後から気付いても捕まえることができません。呉々もチャンスを見逃さないようにしてください。
医師は死ぬまで勉強とよくいわれます。そのためには常に新しい知識を吸収し続けなければなりません。肉体的な老いは致し方ないとしても、知的好奇心を刺激する精神的な若さは保たなければなりません。では精神的な若さとは、老いとは。それを端的に現した言葉、私の座右の銘としているサムエル・ウルマンの「青春」という詩の一節を紹介して、私の話を締めくくらせていただきます。
青 春
人は信念と共に若く、
疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く、
恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く、
失望と共に老い朽ちる |
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