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オットー・モーニッケのもたらした木製(ペルシャクルミの木)のラエンネック型聴診器。日本最古の聴診器で、吉雄圭斎(阿蘭陀通詞)に与えたものである。(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)

 長崎大学医学部には、いまや呼吸器診療には欠かせない聴診器、本邦最古の聴診器が保管されている(写真)。この聴診器は1848年、本邦に最初の種痘(牛痘)をもたらした出島商館医オットー・モーニッケが長崎に持参したものである。
 長崎大学医学部の歴史は1857年11月12日、オランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォルトと松本良順によって開設された長崎奉行所西役所医学伝習所に遡る。ポンペは本邦で最初の系統的西洋式医学講義を我が身を忘れ昼夜を徹しておこない、後に「西洋医学教育の父」と称されている。このポンペの医学教育への情熱は、司馬遼太郎の長編小説「胡蝶の夢」に詳述され今なお多くの医療従事者の感動をあつめ語り継がれている。1861年9月20日には、ポンペと松本良順が熱望した本邦最初の西洋式病院(養生所、124床)が美しい長崎港を見下ろす丘に完成し、これが長崎大学医学部附属病院の始まりとされる。開設当時、養生所ではポンペを中心として、日本中に蔓延していたコレラや天然痘の治療がおこなわれていた。その後、幾多の変遷を経て長崎大学医学部附属病院となった。しかし、昭和20年(1945)8月9日11時2分の原子爆弾投下によって、直下にあった医学部は多数の教職員と学生の尊い命を失い、附属病院ともども壊滅的打撃をうけた。一時は廃校も考慮されたが、その奇跡的復興には血のにじむ努力が注がれ、現在の青空にそびえ立つ病院へとみごと蘇った。まさに「日本の戦後復興の象徴的存在」である。
 このような長崎大学医学部の苦難にみちた長い医学史の中で、内科学第二講座は第4代の筬島四郎教授、第5代の原 耕平教授、そして第6代の河野 茂に引き継がれている。筬島教授は、当時隆盛を誇った肺結核の診療のかたわら、生化学的手法を用いて肺の脂質代謝について研究をすすめられた。その後、原教授はいち早く呼吸器感染症に着目され就任後より、とくにマイコプラズマ肺炎の臨床的研究にとりくまれた。時期を同じく、肺がんや気管支喘息の臨床的研究にも幅をひろげられ現在の総合的な呼吸器疾患診療と基礎研究の礎を築かれた。河野教授にひき継がれた教室では、さらに分子生物学的手法を駆使して細菌から真菌感染症まで幅広く早期診断法や新薬の開発まで研究を進めている。他の呼吸器疾患研究においても、アルコール誘発喘息と肺線維症、肺がんの先駆的研究がおこなわれている。
 オットー・モーニッケの木製聴診器からポンペの情熱的医学教育、そして20世紀から21世紀へのゲノム医学の発展と、時代やその名を変えても長崎大学医学部内科学第二講座は世界の呼吸器病学に貢献することをここに誓うものである
(2003年2月発行予定の日本呼吸器学会100年史原稿より、一部抜粋改変)

国立大学法人 長崎大学