医学部長メッセージ

医学部長から卒業生へのメッセージ
 平成28年度長崎大学医学部医学科卒業式祝辞

 本日、医学部医学科を卒業される122名の皆さん、ご卒業、誠におめでとうございます。教職員を代表して、心よりお祝い申し上げます。本日、皆さんに授与された「学士」の学位は、この6年間の皆さんの学業の証であり、ここに至るまでの努力に敬意を表します。
 また、卒業生を本日まで支えてこられたご家族の皆様にも、お喜び申し上げます。さらに、この場を借りまして、これまで卒業生を導いてこられた教職員の方々にも改めて御礼を申し上げます。
 この坂本キャンパスで過ごした6年は、皆さんにとってどのような意味を持っているでしょうか。
 今日は、卒業アルバムの中で、皆さんに送った言葉について改めてお話をしたいと思います。
 ライオンの前にカメがいたというお話です。
 私が医学部長を務めることになった四年前に、医学部長室に剥製の、鼈甲のカメが飾ってあったのです。
 私は、動物の剥製のようなものは苦手であったので、事務の方にお願いして片付けていただきました。その後、カメのことは忘れていました。
 話は50数年前に戻ります。
 長崎大学医学部が国外へ医療団を派遣したのは、アフリカが最初ではありません。ケニアのナクルへ最初の医療団を送る2年前、1964年8月22日、医師4名、看護師2名からなる医療団を当時のベトナムのサイゴン、現在のホーチミンへ送っています。
 1960年代のベトナムは、長く続く内戦から、アメリカがついに軍隊を派遣し、北と南に別れたいわゆるベトナム戦争へと激化しつつある時期でした。
 ベトナム国内の混乱によって満足に医療を受けることができない人々を支援できないかと、外務省を通じて本学医学部へ打診されました。
 当時、ベトナムへ医療団を派遣することは、政治的にも、そして、紛争地域に医療団を送る危険性という意味でも非常に難しいことでした。国内の世論だけではなく、医学部教授会にあっても反対があったのです。
 その中で、当時の医学部長であった後藤敏朗先生や主だった教授は、最終的に派遣を決断します。その背景にあった理由は、長崎大学に「熱帯医学研究所を設置したい」という強い思いと同時に、本学医学部が、国際医療に関心が高いことを示したかったからです。当時あった風土病研究所を熱帯医学研究所として改組、昇格させることは、その後の長崎大学、そして医学部の教育、研究に重要な意味を持つと考えていたのでした。
 もちろん、たった6名という小さな医療団の派遣が熱帯医学研究所の設置にどれだけ大きな意味を持っていたか、それは不明です。しかし、その2年半後、風土病研究所は熱帯医学研究所へ改組され、医学部はアフリカへ医療団を継続的に派遣し、それが現在の熱帯医学研究所、ケニア及びハノイ研究拠点、そして最近決定されたBSL4研究施設の設置へと続くこと、加えて、チェルノブイリを中心とした放射線災害に対する国際医療活動と、決して無縁ではないでしょう。
 6名の医療団は、長崎から福岡を経て、東京、羽田から飛び立つまで、極秘裏に移動します。派遣を決めた時点で、反対派の人々から、医療団の派遣を見送るようにと様々な圧力がかかっていたからです。一泊した後、早朝の東京を用意された車で、白バイの先導のもとで、羽田まで駆け抜けたことが記されています。
 当時のサイゴンは、フランス統治の影響が残る美しい街であったそうです。派遣された時点では、街の治安も、メディアで伝えられていたほど、悪くはなく、医療団は4ヶ月の医療活動の後、12月25日、無事に帰国しました。しかしその後、ベトナムの内戦はさらに激化し、サイゴンも危険となったため、日本からの医療団派遣は長崎大学が最初で最後となりました。
 冒頭でお話した鼈甲のカメは、派遣された医療団が持ち帰った医学部長への記念の品でした。
 この坂本キャンパスで過ごした6年間は、皆さんの人生において、ある一時のことであるかもしれません。しかし、その時は、長崎大学医学部の歴史の中にあります。皆さんの6年間は、ベトナムへ医療団の派遣を決めた人々、不安を覚えながらサイゴンに赴いた医療団の思いと続いています。
 今は意識してはいなくても、その歴史と風土に育まれた本学医学部の精神を理解し、そこで医学を学んだ意味、そして自身の使命に気づく時が来ます。
 皆さんの今後のご活躍を期待しております。


平成29年3月24日
長崎大学医学部長
下川 功