教室の歴史

あゆみ
 日本に未だ形成外科という言葉が存在しなかった1950年代初期(昭和20年代後半)、現難波雄哉名誉教授(初代長崎大学形成外科教授)が当時、第一外科において教室医員兼厚生技官として原爆被爆患者の調査分析作業に従事している過程で、欧米には我が国にないPlastic Surgeryという外科の分野があることを知り、この再建外科的内容に強く惹かれ、Plastic Surgeryを専攻することを決意したのが、我が国の形成外科並びに長崎大学医学部形成外科のそもそもの起こりの端緒となったわけです。

 当時の日本では整形外科が一般外科よりも、診療内容がよりPlastic Surgeryに近かったことから、1954年に難波先生は第一外科から講師として整形外科に転科し、手の外科や顔面先天異常の診療を主に専攻しました。

 その後1958年、日米交換研究員として渡米し、当時Plastic Surgeryの世界的権威であったBarsky教授の下でニューヨークの Mt.Sinai病院でPlastic Surgeryの研修を受けました。これは日本人として最初の形成外科研修のための留学でした。

 1959年12月、難波講師の帰国を受けて東京では、三木東大教授(1958年11月に発足した日本形成外科学会の初代会長)を座長として「アメリカのPlastic Surgeryを語るー難波博士を迎えてー」と題して座談会が開かれました(内容については雑誌「形成美容外科3巻2号 1960年」に掲載されています)。

 1960年1月長崎大学付属病院の臨床主任会議で外科系各科(外科、整形外科,耳鼻咽喉科、眼科、歯科、皮膚科)で週一回の形成外科特別診療を行なうことが決議されました(これは日本における最初の本格的な形成外科診療です)。しかし、この特別診療は週一回の不便さから、整形外科の中に難波講師を中心とした形成外科診療班を組織することにより、常時、形成外科の患者を診療班に紹介することが可能となり、長崎大学付属病院形成外科診療班には広く全国から患者が集まりました。

 1979年、形成外科診療班は診療科として独立し、難波助教授は初代形成外科教授に就任。その後、難波教授は日本形成外科学会の法人化に尽力し1986年に学会は社団法人日本形成外科学会となりました。また、難波教授は日本熱傷学会や日本頭蓋顎顔面外科学会の創設にあたっては中心的役割を果たし、各大学における形成外科の講座化にも率先して努力し、
 1987年に長崎大学をはじめとして一部の大学の講座化に成功しました。また、1984年に北京国際形成外科シンポジュウムに参加以来、日中形成外科交流に努め、第2回の日中交流学会を長崎で開催しました。

 1990年に難波教授は定年退官され、同年、藤井 徹助教授が第二代教授に就任しました。以後当教室は藤井教授の指導のもと更なる発展を遂げました。2002年に長崎大学医学部形成外科学講座は長崎大学大学院医歯薬学総合研究科発生分化機能再建学講座構造病態形成外科学に組織改変しました。

 2003年藤井教授は定年退官され、同年、平野 明喜助教授が第三代教授に就任しました。

 2004年に長崎大学は独立行政法人国立大学となり現在に至っています。
歴代主任教授
難波 雄哉 先生
初代教授
難波 雄哉 先生
(1979年~1990年)
藤井 徹 先生
第二代教授
藤井 徹 先生
(1990年~2003年)
平野 明喜 先生
第三代教授
平野 明喜 先生
(2003年~2014年)
田中 克己 先生
第四代教授
田中 克己 先生
(2015年~)
主催学会
学 会 会 長
1979年 第5回 日本熱傷学会学術集会 難波雄哉 教授
1980年 第23回日本形成外科学会総会・学術集会 難波雄哉 教授
1983年 第1回日本頭蓋顎顔面外科学会学術集会 難波雄哉 教授
1986年 第10回日本口蓋裂学会 難波雄哉 教授
1985年 第1回長崎大、中国第2医学院形成外科交流集会  
1989年 第2回日中形成外科学術交流学会 難波雄哉 教授
1996年 第5回日本形成外科学会基礎学術集会 藤井 徹 教授
1999年 第25回日本熱傷学会学術集会 藤井 徹 教授
2000年 第2回日本褥瘡学会学術集会 藤井 徹 教授
2002年 第45回日本形成外科学会総会・学術集会 藤井 徹 教授
2006年 第24回日本頭蓋顎顔面外科学会学術集会 平野明喜 教授
2010年 第15回形成外科手術手技研究会 平野明喜 教授
2014年 第57回日本形成外科学会総会・学術集会   平野明喜 教授
2019年 第11回日本創傷外科学会総会・学術集会 田中克己 教授
2021年 第64回日本手外科学会学術集会 田中克己 教授
2023年 第66回日本形成外科学会総会・学術集会 田中克己 教授