腫瘍外科(第一外科)紹介

第一外科の歴史
 第一外科の誕生以前の昭和8年頃は古屋野外科、原外科の二つの外科があり、両教授が共に京大外科出身であったこと、またなるべく各種の多くの患者を診るという観点から、学期毎に医局員が全員交代する制度を取り入れており、外科教室としての区別はなく、比較的のんびりとした雰囲気であった。
 その後、昭和9年3月に原教授が病気退官され、後任として東大青山外科から河合教授が着任されたのをきっかけに、同年8月31日に、外科が第一外科(河合外科)と第二外科(古屋野外科)に分離された。第一外科はこのとき産声をあげたことになる。
 分かれてからの第一外科は河合教授を中心として、当時の十数名の医局員全員が一丸となって教室作りに熱意を燃やして努力した。そのころの学内では第一外科は教室員を鍛え過ぎるという評判がたっていたという。
 教室員もやっと新しい制度に馴れて軌道に乗り出したと思われた昭和12年7月、河合教授が突然退職され東京に戻ることになった。後任には同じ東大青山外科出身の中谷教授が着任したが、同年12月に半年足らずで応召退官となり、その後、昭和13年7月に九大赤岩外科から着任した三宅教授も任期わずか3年半という相次ぐ短期間での主任教授の交代となった。まさに第一外科教室にとっては厳しく、不安定な時代であった。しかし、この間の教授不在の時期には、残された教室員たちは、日本外科学会総会などに積極的に演題を出すなど、少数ながらも頑張って不在時期を乗り切ったという。
 その後、昭和17年3月に角尾学長の懇望により京城帝大から調来助第4代目教授が着任されたことによって第一外科は息を吹き返す。昭和40年3月に退官されるまでの23年間という長期政権の間に多くの業績を築いた。また、昭和20年8月9日には大学病院にて被爆し、その後、医局員たちとともに被爆者の治療、救護のため日夜奔走されたことは今なお語り継がれている。その後任者として育てられた辻泰邦助教授が昭和40年6月に教室出身者としての初めての教授(通算では第5代目)として着任した。辻教授の在任中の業績において最も顕著なものは「肺移植の実験並びに臨床」であり、昭和41年には本邦第2例目(世界第6例目)となる臨床肺移植を行った。辻教授のもとで育った富田正雄先生が昭和51年に宮崎医科大学第二外科の教授として転出したが、昭和56年、辻教授の定年退官の後任として第6代目教授として着任された。調教授、辻教授と受け継がれた第一外科の伝統を守り、多くの業績により平成3年の日本呼吸器外科学会、平成6年の日本肺癌学会の会長として総会を主催された。平成8年からは第7代目の教授として、当時の綾部公懿助教授が着任された。平成14年8月に大腸癌によりご逝去されるまでのわずか6年という短期間であったが、日本呼吸器外科学会を会長として主催されるなど広範囲に活躍された。
(文責 永安 武)

【参考文献】

1) 医局通信 No.8 調教授退官記念号 昭和39年12月1日 発行
2) 医局通信 No.9 辻教授開講10周年及び調名誉教授喜寿記念号 昭和50年6月20日 発行
3) 医局通信 No.10 辻教授退官記念号 昭和56年10月30日 発行
4) 富田正雄教授退官記念誌 1995年7月20日 発行