学生・研修医の皆さんへ

留学について
留学体験記(国内)
「甲状腺専門病院への留学経験」(2011年9月から2013年12月)
 進藤 久和
(平成8年卒業)
 2011年9月から2013年12月まで、甲状腺専門病院の神甲会・隈(くま)病院に国内を留学させていただきました。神戸市の中心地にある、隈病院は全国有数の甲状腺専門病院で、関西一円だけでなく、北陸や四国地方からも患者さんが訪れます。
【外来】
 長崎弁混じりの慣れない関西弁を駆使しながら、外来診療を行いました。また数多くの超音波下細胞診検査を担当いたしました。
【手術】
 甲状腺・副甲状腺の手術が1日に約10件(年間で約2,000件)あり、高い手術技術を指導して頂きました。隈病院では、かすれ声の原因である反回神経麻痺(はんかいしんけいまひ)を起こさないように、神経刺激装置を用いて、術中に神経を確認しながら手術を行います。また高い声を出すために重要な上喉頭神経外枝(じょうこうとうしんけいがいし)もきちんと温存するように心がけています。術後に低カルシウム血症にならないように、副甲状腺の温存や摘出移植も確実に行っています。このように病気の治療の加え、合併症を減らす工夫をたくさん学ぶことができました。
【カンファレンス】
 週2回、カンファレンス(会議)を行っていました。外科医、内科医、病理医をはじめ、検査技師(放射線、病理、超音波)、看護師など多職種が一同に集います。甲状腺・副甲状腺の治療が難しい症例やまれな症例を経験することができました。 隈病院での経験を活かして、2014年から長崎大学病院 腫瘍外科では甲状腺の手術の際に、神経刺激装置を用いて反回神経などを確認することや、副甲状腺の温存を心がけて手術を行っています。

隈病院での手術(右から2番目)

隈病院での手術(右から2番目)

「東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター」(2005年4月〜2007年4月)
 國崎 真己
(平成10年卒業)
 私は、2005年4月から2007年4月までの2年間、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター(中村祐輔教授)で国内留学という形で研究させて頂きました。当時の中村研は非常に厳しいという評判通り、昼食の1時間、夕食の1時間を除いて朝8時ぐらいから夜中の1-2時まで研究をするという生活を月曜日から土曜日まで判で押したように繰り返す日々でした。しかも夜中まで実験できるように研究所から歩いて通勤できるところに住むという暗黙の了解がありましたので、東京の白金という立地のため、非常に家賃も高く、バイトも週に1回と限られていたため生活は大変苦しいもので、多くの先生達は貯金を切り崩しながら生活していました。夜中に研究室から自宅に歩いて帰るときにはプラチナ通りのお店で楽しそうに飲んでいる人達を横目に見ながらとぼとぼと帰っていました。しかしそういった生活でしたが、辛かったとう印象は全くなく、自分は全く知識も経験も無い中で2年で結果を残すことを目標に、ひたすら手を動かし、日々新しいことを学ぶ喜びもあり、第一線の研究室で最先端の研究が出来るという遣り甲斐を感じながら生活していました。今振り返ると大変無駄が多く、もう少し知識があれば回り道をせずにもっと沢山の成果が出せたのにと残念に思うことは多々ありますが、臨床にわき目も振らず研究生活に没頭できた経験は何物にも代えがたいと考えていますし、必要以上に制限されることなく、自分の考えや発想を元に研究をさせて頂けた環境は大変有り難いと考えています。また最先端の研究室で非常に優秀で勤勉な仲間と研究出来るきっかけを作って下さった、永安教授、古川教授、そして中村教授には大変感謝していますし、快く送り出して下さった先生方にも感謝しています。研究室では研究面だけでなく、自分をアピールすることも海外からの留学生に教わりました。そんな彼らを真似して、第99回のアメリカ癌学会に行く際には、永安教授に自分の推薦状を書いてもらうように教授室に行き、井上研究財団から海外発表援助の渡航費を頂くことも出来ました。第100回のアメリカ癌学会の時には長崎で開始したバイオマーカー研究の発表でAwardを頂くことも出来ました。以前から多くの後輩達を見ていると中途半端に臨床に関わろうとする姿勢が見受けられ、研究にはまり切れていないなと感じることがあります。中途半端に研究を続けるよりもある意味割り切ってわき目も振らず基礎研究に没頭する方が結果はどうあれ意味を持つものになるのではないかと思っています。古川教授が以前、学生講義後に質問を受けた際、外科と研究の両立は中途半端で共倒れになるので一つの道を究めた方が良いという趣旨の回答をされていました。大学院生活も中途半端が一番無駄で意味がないものだと自分自身も感じていています。自分は当時注目されていた癌化におけるエピジェネティックなメカニズムに関する研究に携わていて、特にSMYD3というmethyltransferaseがヒストン蛋白でない蛋白をメチル化することで癌化に関わるのではないかとういう研究を進めてきました。その当時多くの遺伝子をクローニングし、片っ端から蛋白精製してメチル化の実験を行っていました。数多くやった中で最終的にSMYD3が血管新生因子であるVEGFR1をメチル化することを報告した論文(CancerRes 2007;67(22):10759-65)が自分の学位論文となりました。長崎大学に戻って来てからも東京大学医科学研究所の浜本先生(現在シカゴ大学の准教授)との共同研究の中でヒストン蛋白のmethyltransferaseであるEZH2が様々な癌の予後に関わることを報告しました。(CancerSci 2011;102(7):1298-305)。これらのことから我々はエピジェネティックな分子メカニズムとしてDNAのメチル化だけではなく、蛋白のメチル化が深く関わることは間違いないと考えています。時代的には再生医療が脚光を浴びておりますが、最近になって我々がこれまで研究してきたSMYD3がnon-ヒストン蛋白であるMAP3K2のメチル化を介して癌化に関与することがNatureに報告されました(Nature 2014;Jun 12;510(7504):283-7)。このことからも癌化においてmethyltransferaseが非常に重要な役割を果たしていることが示され、我々の方向性は間違っていなかったと勇気付けられました。今後もこの分野に微力ながら貢献できればと考えています。

中村教授と教授室で最後のご挨拶に伺った時 アメリカ癌学会でIto-enのAwardを頂いた レセプション会場で浜本先生と偶然にも再会 アメリカ癌学会でIto-enのAwardを頂いた レセプション会場で浜本先生と偶然にも再会
中村教授と教授室で最後のご挨拶に伺った時 アメリカ癌学会でIto-enのAwardを頂いた
レセプション会場で浜本先生と偶然にも再会
「がん研有明病院 消化器センター 下部消化管」
 長嵜 寿矢
(平成12年卒業)
 平成12年(2000年)入局の長嵜寿矢と申します。2012年4月から東京は江東区有明のがん研有明病院 下部消化管グループで勉強させていただいております。
 がん研有明病院は、1908年に当時の学財政界を代表する人物や、東京大学青山胤通医学部長と兎の耳のタール発がん実験で世界的に有名な山極勝三郎東大病理学教授らによって設立された民間の学術任意団体“癌研究会”を母体としております。1934年(昭和9年)に我が国初のがん専門の研究所と病院が東京大塚の地に開設されましたが、1945年(昭和20年)4月の東京大空襲で全て焼失。しかし、翌年には銀座に病院を再興し、2005年には現在の有明の地に新病院を設立・移転しております。また、2011年4月からは公益財団法人となり、“癌研有明病院”から“がん研有明病院”へと名称が変更されています。別記の症例数の表は2008年の院内がん登録症例の施設別実績ですが、がん研有明病院が日本一登録症例の多い施設となっております。
 がん研下部消化管グループは年々手術症例数が増えており、2014年の原発性大腸癌手術症例は年間700例を超えました(2014年には下部グループの年間全手術症例数はとうとう1,000件を超えてしまいました…)。2005年から腹腔鏡手術が導入されており、現在は原発大腸癌のほぼ全例に腹腔鏡手術を行っております。当科の特徴は腹腔鏡手術のみならず、進行直腸癌に対する集学的治療(preoperative chemo-radiotherapy)や術前全身化学療法(Neo-adjuvant chemotherapy; NAC)の試験的導入、腹腔鏡下側方リンパ節郭清や他臓器合併切除、腹腔鏡下骨盤内臓全摘等の腹腔鏡下拡大手術など多岐に渡っており、leading hospitalとしての役割を果たすべく、様々なテーマを持って日々の診療に携わっております。
 最後になりましたが、私のわがままを聞いていただき、快く送り出していただいた永安教授をはじめ、医局員の皆様に深く感謝しております。しっかり経験を積んで、長崎大学腫瘍外科の名を汚さぬように、こちらでやれるところまで頑張ってみようと思っております。

症例数(全国) がん研有明病院
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「川崎医科大学 呼吸器内科 免疫研究室での2年間」(2010年4月から2年間)
 松本 博文
(平成12年卒業)
 私は2010年4月から2年間、川崎医科大学 呼吸器内科教室へ国内留学させて頂きました。同科 岡三喜男 教授(長崎大学 第二内科 出身 2004年から現職)は、専門の肺癌診療のみならず癌免疫の臨床解析をはじめ、幅広い分野でご活躍中でした。当時癌免疫の研究室を新規開設するために広く人材を求めておられ、永安教授からの勧めもあって私がお世話になることとなりました。癌と宿主の免疫応答の理論やその科学的な解析過程について、非常に美しく魅力的に感じられましたが、当時は癌免疫どころか一般免疫に対する知識も無い素人同然でしたので、果たして私がやっていけるのか非常に不安ではありました。海外留学に比べれば大したことはないという楽観的な考えで乗り越えました。

 川崎医科大学呼吸器内科 免疫教室は、岡山大学 免疫学教室 教授の中山叡一先生が同教室を定年後に岡教授に招聘されて立ち上げられました。中山教授は岡山大学以前は長崎大学 腫瘍医学教室で助教授としてご活躍されており、長崎の先輩方にはご存知の方も多いのではないでしょうか。(岡教授と中山教授との邂逅のエピソードも非常に面白いものがあります)
2010年4月以降新研究室が立ち上がり、基礎的な免疫学の知識が絶対的に少ない私は周りの研究員にかなり助けてもらいながらの研究生活でした。特に週一回の抄読会ではnature immunologyやscienceなど一流誌に四苦八苦した思い出があります。中山教授は Memorial Sloan-Kettering Cancer Centerで長くご活躍され、その道のspecialistたる方々もよくご存じでした。抄読会で読んだ一流誌の著者ですら『○○は昔から××でね・・・。』とまるで友達の様に話される事が度々ありました。中山教授が語る癌免疫に関する話は大変興味深く、師事されたLloyd J. Old先生(故人 Chairman of Ludwig Institute for Cancer Research)との強固な信頼関係に基づく世界規模での臨床試験の話など、壮大で過ぎて私は呆気に取られるばかりでした。少し大げさですが、何だか『世界』というものを身近に感じた気がしました。若い先生方へお願いです。国内でも海外でも構いませんのでどんどん外へ出て行って、私が岡山で感じた様な『世界の風』を、それぞれの立場で感じて下さい。

 私が研究したテーマの内、当科の臨床検体を用いた癌への免疫応答を同時多項目に検討する研究は、その成果を2013年3月末にシカゴでのAACR(アメリカ癌学会)総会で発表させて頂きました。その他、末梢血リンパ球の培養・分離・増殖の実験も相当行いました。ヒトリンパ球は非常にデリケートで、培養には健常人の血清を数~数十%要します。かなりの頻度で自己採血を行った結果、血清鉄が低値になって驚いたこともあります。なかなか胸を張れる研究成果には繋がりませんでしたが、2年間実験と研究に集中できた状況は、他に代え難い貴重な経験であったと考えております。永安教授にはこの様な貴重な機会を頂きましたことを本当に感謝いたします。

 岡教授・中山教授には留学期間中に多大なるご恩を賜りましたことをこの場をお借りしてお礼申し上げます。同科では癌免疫療法の新規臨床試験が既に始まっていると伺っております。第4の治療法と言われて久しい免疫療法ですが、いよいよ実践的な医療に組み込まれる気配が感じられます。
 私生活でも、晴れの国・岡山と言うだけあって、週末には幼い子供たちと県内外の様々な場所へ繰り出し、それも含めて楽しい2年間であったと懐かしく思います。
「兵庫県立こども病院」(2008年4月〜2011年3月)
 田浦 康明
(平成16年卒業)
 2004年卒の田浦です。国試前から、将来は腫瘍外科に入って小児外科医になりたいと永安教授と大畠准教授に希望を伝えたところ、入局3年目からの3年間を兵庫県立こども病院で研修させていただくことができました。
 兵庫県立こども病院は1970年に現在の住所に開設され、国内有数の小児総合病院として海外にも知られている病院です。老朽化に伴い、近々ポートアイランドへ移転する予定となっています。同院へは私の後に吉田先生も留学されていますが、ここでは私の経験をお話させていただきます。
業 務
 レジデントは、1日の仕事として入院手術、日帰り手術、病棟、HCU病棟の4つをローテーションで受け持ちます。軽症から重症まで、日帰り手術から新生児手術・緊急手術まで、ありとあらゆる手技や管理法を経験できました。また、先天性気管狭窄症に対するスライド気管形成術を受けるために、全国から患児とその家族が集まってきます。その意味での誇らしさはもちろんありますが、それ以上に強い使命と責任感が養われると思います。
科(医局)の垣根は全くなく、小児科はもちろんですが、泌尿器科や心臓血管外科、整形外科とも連携して治療を行うことも度々あります。
生 活
 私が住んでいた神戸市須磨区は、海と山に囲まれた坂の多い土地で、長崎とよく似た風景です。長崎だけかと思っていた原付ナンバー5桁ですが、神戸も実は5桁です。交通網は発達しており、休日には家族を連れて京都、奈良、淡路島や四国(当時は高速1000円でした)までドライブに行きました。
 神戸まで私を送り出してくれた先生方や家族のために、神戸での貴重な経験を忘れず今後も精進したいと思います。

病院正面 妙法寺川にて 小児外科グループバーベキュー
病院正面 妙法寺川にて 小児外科グループバーベキュー
「国立成育医療研究センター」(2009年4月~2年間 臨床留学)
 山根 裕介
(平成17年卒業)
 国立成育医療研究センターは世田谷区に存在します。病院の周りには、セレブが集まる(?)成城学園、桜で有名な砧公園、TBSがよく利用する砧スタジオなどあり、有名人を時々みかけることがありました。
 国立小児病院(1965年、日本初の小児病院)を基礎とした病院で、2010年から現名称になりました。「病院・研究所が一体となり胎児から成人まで成長・発達するなかで健全な次世代を育成するための医療を推進する!」という理念のもと診療を行っています。
 外科メンバーはスタッフ6、レジデント2名の計8名で、スタッフは慶應大学と東京大学の医局人事、レジデントは公募採用でした。出身地は様々ですが、私から見れば、皆「東京の人」!少しでも東京に馴染めるように、(自分なりの)標準語で臨んだのですが、挨拶の第一声から”訛ってるね”とつっこまれ、標準語の獲得を諦めました…
 業務内容ですが、ほぼ毎日手術がありました。月曜と金曜に大きな手術(噴門形成、鎖肛、ヒルシュスプルング病、固形腫瘍手術、腎移植など)があり、残りの曜日は鼠径ヘルニアなどの小手術を複数件。それ以外に新生児手術、虫垂炎などの緊急手術があり、全身麻酔下の検査等も合わせると年間800件の手術(全麻)件数でした。カンファも多く、月:胎児カンファ、火:放射線カンファ、水:術前術後カンファ・回診、木:cancer boardと日々、身体も頭も激しく鍛えられました。
 また個人的には長期留置型中心静脈カテーテル(ポートやBroviacカテーテル)を留置されている患児に発症したCRBSI(いわゆるカテ感染)に対する”エタノールロック療法”の主導をとらせていただき、長崎に持ち帰ることができました。現在、CRBSIをリサーチテーマにしています。
 プライベートでは、友達(同僚)と富士山に登ったり(2年連続)、それなりに東京生活を味わってきたつもりです。なにより家内が満喫していたようでした。
 最後になりますが、永安教授をはじめ、医局の皆様に支えられ、成長させていただきました。今後は長崎県の小児医療を支えていく所存でございます。これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

レジデント仲間と富士登頂、御来光をみたあとの朝7時 レジデント仲間と富士登頂、御来光をみたあとの朝7時
(仕事の写真がありませんでした…)
「九州がんセンター」(2012年4月〜2015年3月)
 稲益 英子
(平成18年卒業)
 2012年4月から2015年3月まで、独立行政法人国立病院機構九州がんセンターに国内留学をさせていただきました。がんの薬物療法を中心に勉強させていただくということで、呼吸器腫瘍科、乳腺科、消化管腫瘍内科、血液内科、病理診断科をローテートしました。
 今になって思い出しますと、始めは「アウェイ」という感じでとても働きにくいと感じましたが、原因が自分の方にあると気づいてからは改善して行ったのではないかと思っています。いかに今まで守られて大目に見ていただいていたかが、外に出ることで見えたような気がします。
 呼吸器腫瘍科を最も長くローテートしましたが、内科と外科が一緒になっている科でしたので内科症例もたくさん経験しました。気管支鏡検査は特に思い出深く、最初の症例がステント挿入という洗礼を受けました。EBUS(超音波気管支鏡)もさせていただき大変勉強になりました。
 日々の診療で特徴的だと感じたのは、どの科においてもカンファランスが非常に多いということです。入院中・外来通院中・新患すべての症例一人一人についてスタッフ全員で検討します。治療中の症例がPDになって治療方針が変更になるときもカンファランスを通して記録を残していきます。非常に時間がかかりますが一番大切な仕事です。治験に登録できる症例を目を皿のようにしてピックアップします。2次治療、3次治療での登録も念頭において1次治療を選択します。初めての経験でしたので慣れないうちはそういった治療の選びかたに違和感を覚えましたが、病院の性質からも不可欠なことだと思います。最終的な治療方法の選択は患者自身でなされますので、条件に合う治験や臨床試験があるのにそれを提示もしないことは大罪とみなされます。
 登録できる症例をもらさないためには今走っている試験をすべて把握しておく必要がありますが、細かい選択基準、除外基準等が把握できてないこともあります。正直なところCRCさんが頼りです。CRC用語でプロトコールを把握していないドクターを「無責任医師」と呼ぶようです。いつか、「責任医師」を名乗れる日が来ることを夢見て頑張りたいと思います。

ピリピリした雰囲気の気管支鏡検査 CRCさんたちと
ピリピリした雰囲気の気管支鏡検査 CRCさんたちと