長崎大学医学部 解剖学第一教室

教授挨拶

教授 森 望

神経という訳語を日本において初めて記述した「ターヘル・アナトミア」から240年、日本の解剖学会は120年、そして長崎大学医学部の解剖学教室は130年余りの歴史(長崎医学校から)を携えています。今、21世紀に入って、「解剖学」は器官・組織の形態観察の学問から、さらに細胞・分子集団間の相互作用の解析に基づいて生体システムの機能を理解する方向へシフトしています。「器官解剖」「組織解剖」そして「分子解剖」。今、話題のゲノミクスもプロテオミクスも生命を保持する分子集団の「分子解剖」に他なりません。

今、私の担当する解剖学第一教室は長崎大学医学部の中で最も歴史の古い教室の一つであり、同窓会名簿によると私で10代目になります。時代の変遷とともに研究内容はそれぞれ異なっていますが、先々代教授以来、「神経解剖」の講座になっており、医学部における神経解剖学の講義と実習に加えて、神経の発達と形態変化の研究を主に担当してきました。私は、前任地の名古屋郊外にある厚生労働省の国立長寿医療研究センターの分子遺伝学研究部、老化制御研究部の部長を辞して、平成16年6月にこちらに赴任してきました。先代の岩堀修明教授のあとを受けて、分子系の新しい時代の技術を導入した分子神経細胞生物学の教室へと再構築を進めてきました。老化脳の研究、神経老化の研究を主としていますが、寿命遺伝子や脳の進化、脳科学の立場からの心の発達にも関心があります。

 教室の研究内容は時代とともに変わっても、教育上は医学生に必要とされる従来の「神経解剖」の教えを貫いていくことに何ら変わりはありません。しかし、大学院大学化した組織体系の中では「生命医科学講座」のひとつ、「形態制御解析学」の教室として、神経のかたちの変化の調節分子やその制御機構の面から、脳神経系の発達、成熟、老化と、その過程における異常や疾患の分子機構の研究を進めています。生命の原理や生きる仕組みを理解するには、無論、機能的な研究が重要であることはいうまでもありません。しかし、「百聞は一見にしかず」。しっかりと「形態」を見据えて、その背後にある「生命原理」を解き明かすことに、私達は夢を追おうとしています。 私自身が大学院生として研究を始めたころは、実験研究というものは何か新しいことを見つけることだ、と思っていました。しかし、あとになって、世の中には「見えている」のに「見抜いていない」こともあるのだ、と気づきました。データがあってもその意味するところを見抜けない。たとえば、アーウィン・シャルガフのヌクレオチド比、あるいはロザリンド・フランクリンのDNAのX線回折写真などがその例でしょう。

かつて、筋肉組織の生化学的な分子解剖を進め、その収縮原理をアクチンとミオシンのスライディングであり、その制御がカルシウムイオンで誘導されることをみてとったアルバート・セントジョルジはこう記しています。
” Research is to see what everybody has seen and think what nobody has thought ” 誰もが見ていながら、まだ誰も見抜いていないものがある。それを見抜けるような研究をしよう。そう、私たちにも、また、君たちにも「発見」のチャンスはあるのです。

 今、ITの時代となり、インターネットを通じて誰もが簡単に他の世界の最新情報を手にすることができます。もう未知の世界への唯一の窓口としてのかつての「長崎の出島」はありません。しかし、新しい知識への渇望を「解体新書」として導入し、またそれに学んだ長崎の人々の熱い志に、今また想いを馳せながら、新しい世紀の新しい視点からの「神経解剖」の研究を展開していこうとしています。
かつて、研究の道は「3K」だといわれましたが、私は若い人にも自分にもあえて「3C」だと言い聞かせています。Change, Challenge, Creation。研究には独創性が大事だといわれます。小さなことであれ他の研究室にはないユニークな視点をもって研究に当たること。単に実験者でなく、研究者となり、科学者として通ずる人間になること。そして、その成果を持って新しい医療の発展に貢献できること。そう念じながら、優れた医療人の育成、医学研究者の育成に努めていきたいと願っています。

以下は長崎大学への赴任後、教室の運営や教育研究に対する基本姿勢、老化研究に関する思いなどを書いたものです。関心のある方はご参照下さい。

少子高齢化の進む日本社会はこれからどうなるのだろうか?
森望「ジャパンシンドロームへの処方箋」長崎県医師会雑誌 第782号67-71(2011)

老化や寿命を制御する遺伝子は脳の中でも働くのだろうか?
森望「脳の中の寿命遺伝子」東京理科大学科学フォーラム6月号 7-13 (2010)

カロリー制限は老化制御の特効薬なのだろうか?
森望「未病からの老化制御:生理的老化と病的老化の食養と抗加齢サプリ」未病と抗老化18, 19-23 (2009)

西洋医学導入の地の長崎の解剖学教室:ここはどういう歴史を背負っているのか?
森望「講座の歴史:生命医科学講座(形態学群)形態制御解析学(解剖学第一)」、長崎大学医学部創立百五十周年記念誌 197-200 (2009)

人類史上老化や寿命はどのように進化してきたのだろうか?
森望「寿命の進化史と遺伝子」エコソフィア特集『エイジングとは何か?加齢の民族自然史』エコソフィア 19 17-24 (2007)

脳の中にこころはどのように形成され、またどう老いていくのだろうか?
森望「脳と心の発達と老化」2006年2月1日に東京都老人総合研究所の特別公開講座『高齢者の生き方とメンタリティー』における講演記録 (2006)

研究人生における夢と迷い:科学者はどう先を見るのか?
森望「育つ心と老いる心:ライフヒストリーにおける転機」朋百 Vol.106,1-3 (2006)

脳には形があるが心には形がない。「心の神経解剖学」は可能なのだろうか?
Mori N, Rooting “Ko-ko-ro” into the brain: Toward the neuroanatomy of mind, Acta Med. Nagasaki 50, 83-91 (2005)

研究者から教育者へ:私はどうして長崎へ来たのか?
森望「新任のご挨拶」朋百Vol.101,13-15 (2004)