平成10年長崎大卒業 松本 幸次郎 |
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アメリカ臨床医経過報告 【2010年4月】 |
【2009年6月】 長崎大学消化器内科誕生及びホームページ開設にあたり、医局長より直々に「研究留学をして、その後そっちで医師になる決意をし米国医師になるまで」を書いてほしいとのご依頼をいただきました。教室にとっては放蕩三昧の私が留学記など書く資格はないと思いますが、手前勝手な行動の言い訳として読んでいただければ幸いです。 医師になろうと決心したのは高校2年生でした。まだ純粋であった私は青年海外協力隊のように発展途上国で働こうと決め、医学部進学を決めました。ですが、私の欠点である長期的計画能力欠如症候群(要は行き当たりばったり)がその後の私の人生に付きまとっていくとは当時は思ってもおりませんでした。医学部生になると高校生の頃の夢などすっかり忘れ去り浜口町で飲み歩き、卒後は長崎大学第一内科に入局致しました。その後、手技が多く面白いと思った消化器内科医を目指すと同時に、いずれは取得しないといけない状況であった博士号取得を早く済ませたいとの不純な動機で、卒後4年目で大学病院に戻って参りました。 大学に戻る前に勤務していた市中病院では消化器内科医を目指していたものの、できるだけ幅広い疾患とあらゆる手技に対応できるようになりたいとの思いが強く、医局や専門の垣根を超えてさまざまな先生方に教えを請いました。大学院在学中の天草でのアルバイト勤務の際も、島ということがあり、小児科、整形外科、皮膚科、泌尿器など様々な疾患を見る機会があり面白さを感じておりました。 そんな中、幸い学位論文が3年で出来上がり、大学院生活が1年残っていたため、先のことはあまり考えずにせっかくだから研究の実績を使って海外生活を体験してみようと思い、アメリカはシカゴのノースウエスタン大学に2年の予定で留学致しました。実際にアメリカの大学病院にやってくると、私の知らない世界がそこにはありました。多くの外国人医師が第一線でアメリカの医療を支えており、また外国人であるにもかかわらず、世界一であろうアメリカのレジデント教育の恩恵を存分に受けておりました。完成されても尚進歩していく教育システムと指導医の数など圧倒的な人的経済的資源の豊富さには正直圧倒されました。 また、こちらの医療を知るうちに、あらゆる疾患及びあらゆる患者に対応する家庭医療科に興味を持つようになりました。家庭医療科の第一心情である患者さんとの関係第一という姿勢も、患者さんと過ごす時間に生きがいを感じる私のスタイルと正に同じだと感じました。また非常に興味深いのは、アメリカの医師は勤務医、開業医問わず発展途上国への医療活動に積極的に参加しており、身近な医師がそれこそ日本と比較すると気軽な感じに見えるほど発展途上国に数週間行ったりしています。そこで、またまた先のビジョンが見えないにもかかわらず、アメリカで臨床医を目指す決断をしてしまった訳です。ですが実際は思うようにいかないもので、よくよく考えてみると(というかよく考えなくても私を知っている友人にとっては周知の事実ですが)医学生の頃の私は再試の嵐で友人からは再試リーダー略してリーダーと呼ばれており、自他共に留年せずによく卒業できたなと思われたその私が英語で外国の医師免許試験を受けるなど無謀な挑戦であることは火を見るより明らかでした。結局、研究業務以外の時間つまり夜と早朝は机にかじりつき、週末も図書館に行ったりと余暇が全くない生活を余儀なくされ、アメリカに来て多少なりともゆったりとした家族の時間を過ごせると思っていた妻の期待を大きく裏切り、日本にいた頃と変わらない仕事時間になってしまいました。研究留学と言う爪に火を灯す様な耐乏生活の中、夫は勉強ばかりで、海外で誰に頼れるわけでもなく乳飲み子を抱えた妻の生活は非常に過酷だったと思います。話は逸れますが、妻帯者がアメリカで長く生活していくキーワードは「妻」で間違いないと思います。でなければ私はとうの昔に日本に戻っています。 基礎医学、臨床医学、一日で12人の模擬患者さんを診察し診察ノートをその場で提出するというストレスフルな実技試験の3つの試験をなんとかクリアしました。その後アメリカでの臨床経験がポジション獲得には非常に重要であるということを知り、コネのない私は当たって砕けろで面識もない方々に連絡を取り臨床実習をさせてもらいに、数週間あるいは週末を使っての病院実習をさせてもらいました。見ず知らずの私に手を差し伸べてくださった先生方の優しさは非常にありがたく、私の目標達成に非常に大きなポイントとなりました。更には、ビザの問題などで計画が1年遅れたりもしたのですが、なんとか今年6月よりイリノイ州の州都、リンカーン大統領ゆかりの地スプリングフィールドのSouthern Illinois University家庭医療科にて3年間のレジデント生活を始める運びとなりました。 その時その時に自分の興味のままに進路を決めてしまい、なぜか今はこのような形で医療に関わっております。一流のレジデント教育システムの中で勉強でき、患者さんと一番密接に関わりあらゆる疾患を診る家庭医療科、高校生の頃の目標を思い出させてくれるアメリカの医療活動、そういった経験を通して今後またやりたいことが具体化されてくるのかもしれません。以上の様に私の医師人生は正に右往左往しておりますが、一貫していますのは患者さんが第一ということでしょうか。たまの臨床実習の際に患者さんと話をしていると「あぁ、ここが私の居場所だよな」と居心地の良さを感じる自分に何度も気付いたのですが、裏を返せば研究留学のお陰でその事が再認識できたのかもしれません。ですから、アメリカで臨床医を始める大きな不安はありますが、同時に臨床に戻れるという嬉しさがあります。 こちらに来てから何度となく長崎大学で消化器内科医として働いていた当時のことを思い出すのですが、私の心の中に染み付いている一つ言葉があります。臨床、研究、学生教育など多忙な生活の中で目の前のことをこなすことで精一杯の毎日、中尾一彦先生がおっしゃっていた「患者さんが第一。実験中でもなんでも患者さんに何かあったときはやってる仕事を投げ捨ててでも患者さんの所に飛んで行け!!」という言葉です。消化器班で身に付けた心は遠くアメリカにいても常に臨床医としての私の心の中心に位置しています。 本来であれば、アメリカで習得した研究技術を長崎大学消化器内科に持ち帰るのが私の使命であるにも関わらず、中尾一彦教授、市川辰樹先生はじめ消化器内科の先生方に「頑張って」とおっしゃっていただける私は幸せ者だと思います。 最後ではありますが、今後の長崎大学消化器内科の更なる発展を心より願っております。乱文失礼いたしました。 |