海外留学報告

海外留学報告:留学体験記
平成10年長崎大卒業 松本 幸次郎

アメリカ臨床医経過報告 【2010年4月】

2009年7月より米国イリノイ州の州都スプリングフィールドにあります州立大学南イリノイ大学スプリングフィールド校Family Medicineで3年の予定で研修医をしております松本幸二郎です。 今回はアメリカでの研修医生活を経過報告させていただこうと思います。以前消化器内科のホームページに寄稿させていただいた際も述べましたが、教室にとっては放蕩三昧の私が留学記など書く資格はなく大変恐縮に感じております。アメリカで研修を始めてまだまだ9ヶ月であり、かつ南イリノイ大学スプリングフィールド校のみの対象症例N=1の非常に偏った私見であることをご了承ください。

私の所属するFamily Medicineはすべての年齢層と疾患を対象としており、年4回のFamily Medicineの入院患者を診る月以外は異なる専門科を月毎にローテーションするというシステムになっております。
現在の所、産婦人科、整形外科、外科外来、ICU、Behavioral Science(精神科と重複する領域です)を回りました。 Family Medicine Inpatient(入院)やICUといった入院患者を診るローテーションでは日本で働いていた頃に近い忙しさですが、それ以外のローテーションは比較的ゆったりした生活を送ることができます。
いくつか項目を分けて研修の様子を以下に書きたいと思います。

<研修全般>
指導教官は、医師、薬剤師、Nurse Practitioner、Social Worker、助産婦など多様な職種で構成されています。レジデントは各学年8名の3学年合計24名となります。
週1回3時間の全体カンファランスがあり、他科ローテーション中のレジデントも含め参加可能なスタッフが全員集まります。 他施設からの招待演者や、スタッフ、研修医などが様々なトピックを話します。 あくまで研修医の指導がメインの内容なので、実践に即したものとなります。 なかには弁護士がきて法的な話、経済的な話をしたり、小グループに分かれてさまざまな疾患の診察法を指導医が直に指導したりもします。 また、レジデント一人一人にMentorと言う指導医が割り振られており、研修の進み具合や悩み、要望がないかなどなんでも相談できる機会が3ヶ月に一度は設けられています。その際には、年1回の筆記テストの結果や点数化されたレジデントの評価などを踏まえて、改善があればアドバイスしていただけます。また、何か特別な研修をしたい場合は相談するとなるべく対応してくれるようです。 私の場合、アメリカで内視鏡ができるようになりたいと思っているため、内視鏡のトレーニングができないかローテーションの調整を現在行ってもらっています。 Family Medicineという特性上、整形外科、皮膚科、小児科、産婦人科精神科など内科出身の私には難しい分野がありますが、「あらゆる疾患及び患者に対応できるようになりたい」と思っている私にとっては非常に勉強になる研修です。

<入院受け入れ>
On call doctor (労働時間は朝6時から翌日午後1時までで、午後10時半までの入院受け入れ、全ての入院患者及び出産に対応) とNight Hawk(午後10時半から翌朝9時までの入院受け入れのみ) の二人のみで全ての入院受け入れを行います。 多くの患者はまずERに赴き、ERの医師が必要な検査、治療、他科紹介をまず行い、その後Family MedicineのOn-callかNight hawkに連絡がきます。また日本同様、病棟に直接入院してくることもあります。基本的に病歴と検査結果はコンピューターシステムに入っているのですが、膨大な情報の中から必要な部分のみ抽出するのは簡単ではありません。私が日本にいた頃は、紙の外来カルテ、退院サマリー、以前の入院カルテを引っ張り出し時間をかけて調べていましたが、こちらでは患者の病歴収集、診察、考察、治療方針検討を約1時間で済ませるのが理想的な感じです。指導医と電話を介して治療方針を最終決定したのち、全てのオーダーを出し入院受け入れ作業はひと段落です。
画像検査を含めほとんどのオーダーは夜間であろうが時間帯に関係なく速やかに施行されるため、入院期間1日というのが非常に多く、逆に1週間以上だと長い印象があります。日本と比較すると入院での経過観察という概念がないのではと思うほどすぐ退院し、患者の状況によっては訪問看護やナーシングホームという療養型に移ったりします。そのためか退院直後の再入院は日本よりはるかに多い様です。

<入院での日々の仕事> 
朝6時頃に病棟に行き、カルテや検査結果のチェック、患者さんの診察、研修医の判断でできるオーダー、カルテの記入を行います。私の場合一人あたり20分から30分かかります。毎日9時から病棟カンファランスが始まり、担当患者の報告を行います。指導医一人、3年目レジデント一人、1年目と2年目レジデント5名の合計7人が一つのチームとなっております。さらに医学部生、薬学博士(PharmDといいます)などが加わることがあります。 2時間強のカンファランス終了後は、指導医と3年目レジデントは病棟回診を行い、それ以外のレジデントは追加の指示やカンファランスで退院が決定した患者の退院オーダーを出し午後は外来、on-call Drのバックアップ、また当直後であれば帰宅となります。退院時診断名、プリントアウトした退院時処方に継続、中止などのチェックマークを入れ、必要であれば処方箋を書き、退院後の外来診察日と外来担当医の電話番号などを指示簿に書き、クラークに渡せば退院処理は終了となります(基本的に指示簿に書くのみで終了し、日本と比較するとかなり簡潔な作業です)。独居、家族との問題、ホームレス、無保険、ホスピスや訪問看護利用など問題を持つ患者さんはソーシャルワーカー介入と指示簿に書いておけば、後は全てソーシャルワーカーで解決してくれます。入院時病歴と退院サマリーはDictation(電話で口述録音したものを専門の方がワープロ打ちしてくれるので大幅に時間が短縮できます)後、翌日にはパソコン上で見れるようになります。 日々のカルテ書きは、データがインプットされたカルテをプリントアウトし、それに追記していく形で時間が短縮できます。

<外来>
全てのローテーションにおいて週に1-2回Family Medicineでの外来の割り当てがあります。半日枠が基本で、1年目は3-5人、3年目になると10人以上診察するようになります。クリニックのレイアウトは指導医が常駐する部屋の周囲を診察室が囲むような作りで、その部屋から研修医は診察室に出て行き、診察後指導医の所に戻り報告するという形式です。1年目の研修医の場合は症例報告後に指導医が研修医を伴って全ての患者に会ってくれるため、かなり濃厚な指導となります。研修医に対し憤慨したり、高圧的になることはまずなく教育的見地からの指導に徹します。というのも、研修医指導医双方が評価対象となっており、定期的にお互いを点数化するシステムの存在が大きいのかもしません。

<日本ではあまりみかけない○○> 
職種としては、採血専門技師、患者搬送スタッフ、食事搬送スタッフ、クラーク、Respiratory Therapist(人工呼吸器を管理してくれます)、Nurse Practitioner、Physician Assistant、ヘリコプターで患者搬送するスタッフ、特殊な検査や他科紹介仲介のスタッフ、IT機器指導員、など
その他の○○としては、IVH挿入や生検などはオーダーを書き放射線科医が行う、食事はレストランの様なメニューを見て患者が毎食電話でオーダー、ICUでは患者が変わるごとにカーテンまでも交換、金属のピンセットやはさみの使い捨てなどディスポーザブルの異常な多さ、ドクターズラウンジ(無料の飲食物が豊富に置いてあり、パソコンとテレビがありくつろげる)、医者に切れる患者の割合の高さ、無保険の患者の多さ(無保険でもERは受け入れなければいけませんが)、PalmやiPhoneの使用頻度の高さ(医療情報の確認のため)、ポケベル(未だに電話での直接の連絡はあまり行いません)、勤務時間以外では病院から連絡がほとんどない(対応しなくてもon callが対応する)、性格のいい人、その逆に性格のきつい人の多さ(様は極端な人が多い印象)、自宅での残務処理(電子カルテのため在宅で外来カルテ記入や検査及び処方のオーダーなどできる)、看護婦が患者の病歴、検査結果、投薬内容など把握している、看護婦によるオーダーや処方の代行、患者さんの窓口での支払いがない(後日保険会社から請求書がくる)、朝は早かったりするが夕方は定時帰宅、異常なまでの医療費の高さ(1週間入院で1000万円請求が普通にありえる)、救急車は無料ではない、専門医の種類の多さ、基本はネクタイ着用(日本ではいつもケーシーだった私)、でもon-callの時はなぜかみんな手術着(別名スクラブ)、スクラブや白衣のまま外にでる(帰宅途中スクラブでスーパーによっても誰も気にしません)、医者とコメディカルとの垣根は低い(医者でもいろいろと突っ込まれます)、専門医によっては予約が数ヶ月後、など

良い面悪い面あるのですが、一言で言い切ることはできませんし、個々人によっても意見の分かれる所と思われますので今回は敢えて良い面悪い面ごちゃ混ぜにして純粋に私の経験していている医療を書かせていただきました。一つはっきりと言えることは、莫大な医療費と豊富な医療従事者数の元でのみアメリカの医療は成り立っているということでしょうか。 またここに付け足すまでもなく、32才まで長崎弁しか離せなかった私の英語での苦労は絶えません。
以上だらだらとした文章となってしまいましたが、松本はアメリカでなんとか生き延びているとわかっていただければ幸いです。 最後になりましたが、長崎大学消化器内科の今後の更なる飛躍を心より楽しみにしております。

Department of Family Medicine,
Southern Illinois University in Springfield,
松本幸二郎

【2009年6月】

長崎大学消化器内科誕生及びホームページ開設にあたり、医局長より直々に「研究留学をして、その後そっちで医師になる決意をし米国医師になるまで」を書いてほしいとのご依頼をいただきました。教室にとっては放蕩三昧の私が留学記など書く資格はないと思いますが、手前勝手な行動の言い訳として読んでいただければ幸いです。

医師になろうと決心したのは高校2年生でした。まだ純粋であった私は青年海外協力隊のように発展途上国で働こうと決め、医学部進学を決めました。ですが、私の欠点である長期的計画能力欠如症候群(要は行き当たりばったり)がその後の私の人生に付きまとっていくとは当時は思ってもおりませんでした。医学部生になると高校生の頃の夢などすっかり忘れ去り浜口町で飲み歩き、卒後は長崎大学第一内科に入局致しました。その後、手技が多く面白いと思った消化器内科医を目指すと同時に、いずれは取得しないといけない状況であった博士号取得を早く済ませたいとの不純な動機で、卒後4年目で大学病院に戻って参りました。

大学に戻る前に勤務していた市中病院では消化器内科医を目指していたものの、できるだけ幅広い疾患とあらゆる手技に対応できるようになりたいとの思いが強く、医局や専門の垣根を超えてさまざまな先生方に教えを請いました。大学院在学中の天草でのアルバイト勤務の際も、島ということがあり、小児科、整形外科、皮膚科、泌尿器など様々な疾患を見る機会があり面白さを感じておりました。

そんな中、幸い学位論文が3年で出来上がり、大学院生活が1年残っていたため、先のことはあまり考えずにせっかくだから研究の実績を使って海外生活を体験してみようと思い、アメリカはシカゴのノースウエスタン大学に2年の予定で留学致しました。実際にアメリカの大学病院にやってくると、私の知らない世界がそこにはありました。多くの外国人医師が第一線でアメリカの医療を支えており、また外国人であるにもかかわらず、世界一であろうアメリカのレジデント教育の恩恵を存分に受けておりました。完成されても尚進歩していく教育システムと指導医の数など圧倒的な人的経済的資源の豊富さには正直圧倒されました。

また、こちらの医療を知るうちに、あらゆる疾患及びあらゆる患者に対応する家庭医療科に興味を持つようになりました。家庭医療科の第一心情である患者さんとの関係第一という姿勢も、患者さんと過ごす時間に生きがいを感じる私のスタイルと正に同じだと感じました。また非常に興味深いのは、アメリカの医師は勤務医、開業医問わず発展途上国への医療活動に積極的に参加しており、身近な医師がそれこそ日本と比較すると気軽な感じに見えるほど発展途上国に数週間行ったりしています。そこで、またまた先のビジョンが見えないにもかかわらず、アメリカで臨床医を目指す決断をしてしまった訳です。ですが実際は思うようにいかないもので、よくよく考えてみると(というかよく考えなくても私を知っている友人にとっては周知の事実ですが)医学生の頃の私は再試の嵐で友人からは再試リーダー略してリーダーと呼ばれており、自他共に留年せずによく卒業できたなと思われたその私が英語で外国の医師免許試験を受けるなど無謀な挑戦であることは火を見るより明らかでした。結局、研究業務以外の時間つまり夜と早朝は机にかじりつき、週末も図書館に行ったりと余暇が全くない生活を余儀なくされ、アメリカに来て多少なりともゆったりとした家族の時間を過ごせると思っていた妻の期待を大きく裏切り、日本にいた頃と変わらない仕事時間になってしまいました。研究留学と言う爪に火を灯す様な耐乏生活の中、夫は勉強ばかりで、海外で誰に頼れるわけでもなく乳飲み子を抱えた妻の生活は非常に過酷だったと思います。話は逸れますが、妻帯者がアメリカで長く生活していくキーワードは「妻」で間違いないと思います。でなければ私はとうの昔に日本に戻っています。

基礎医学、臨床医学、一日で12人の模擬患者さんを診察し診察ノートをその場で提出するというストレスフルな実技試験の3つの試験をなんとかクリアしました。その後アメリカでの臨床経験がポジション獲得には非常に重要であるということを知り、コネのない私は当たって砕けろで面識もない方々に連絡を取り臨床実習をさせてもらいに、数週間あるいは週末を使っての病院実習をさせてもらいました。見ず知らずの私に手を差し伸べてくださった先生方の優しさは非常にありがたく、私の目標達成に非常に大きなポイントとなりました。更には、ビザの問題などで計画が1年遅れたりもしたのですが、なんとか今年6月よりイリノイ州の州都、リンカーン大統領ゆかりの地スプリングフィールドのSouthern Illinois University家庭医療科にて3年間のレジデント生活を始める運びとなりました。

その時その時に自分の興味のままに進路を決めてしまい、なぜか今はこのような形で医療に関わっております。一流のレジデント教育システムの中で勉強でき、患者さんと一番密接に関わりあらゆる疾患を診る家庭医療科、高校生の頃の目標を思い出させてくれるアメリカの医療活動、そういった経験を通して今後またやりたいことが具体化されてくるのかもしれません。以上の様に私の医師人生は正に右往左往しておりますが、一貫していますのは患者さんが第一ということでしょうか。たまの臨床実習の際に患者さんと話をしていると「あぁ、ここが私の居場所だよな」と居心地の良さを感じる自分に何度も気付いたのですが、裏を返せば研究留学のお陰でその事が再認識できたのかもしれません。ですから、アメリカで臨床医を始める大きな不安はありますが、同時に臨床に戻れるという嬉しさがあります。

こちらに来てから何度となく長崎大学で消化器内科医として働いていた当時のことを思い出すのですが、私の心の中に染み付いている一つ言葉があります。臨床、研究、学生教育など多忙な生活の中で目の前のことをこなすことで精一杯の毎日、中尾一彦先生がおっしゃっていた「患者さんが第一。実験中でもなんでも患者さんに何かあったときはやってる仕事を投げ捨ててでも患者さんの所に飛んで行け!!」という言葉です。消化器班で身に付けた心は遠くアメリカにいても常に臨床医としての私の心の中心に位置しています。

本来であれば、アメリカで習得した研究技術を長崎大学消化器内科に持ち帰るのが私の使命であるにも関わらず、中尾一彦教授、市川辰樹先生はじめ消化器内科の先生方に「頑張って」とおっしゃっていただける私は幸せ者だと思います。

最後ではありますが、今後の長崎大学消化器内科の更なる発展を心より願っております。乱文失礼いたしました。