精神病の発症直前が描かれた
第27回 「ブラック・スワン」(2010)

 今回取り上げるのは米映画「ブラック・スワン」。ナタリー・ポートマンが第83回アカデミー賞の主演女優賞に輝いたサイコスリラーの秀作です。
 ニューヨークのバレエ・カンパニーに所属するニナ(ポートマン)は、「白鳥の湖」公演で主役に抜てきされます。元ダンサーの母親エリカ(バーバラ・ハーシー)の支配と寵愛(ちょうあい)を受けて育てられた彼女はバレエが人生の目的そのもの。まるで「巨人の星」の親子のようです。
 しかし、優等生のニナは華麗な「白鳥」は完璧に踊れますが、魔性的で妖艶な「黒鳥」をうまく表現することができません。舞台監督の厳しい演技指導に、ライバルの出現。母親からは愛情と同時に冷ややかな態度を受けます。やがて彼女は極度の緊張から次第に混乱し、幻覚と虚構の世界に迷入していきます。
 最近、統合失調症をはじめ精神疾患をより早く見つけ出し、予防、治療しようとする「早期発見・早期介入」がイギリス・オーストリアで盛んになりつつあります。言ってみれば、風邪を予防するのにうがい・手洗い、ワクチンを励行し、かかったと思ったら無理せずに休養する―のと同じ考えです。
 長崎大精神神経科でも精神障害の早期介入に積極的に取り組んでいるところです。しかし、精神疾患は実に見えない、他人には分かりづらい症状が多いため、放置されて症状が進んでしまうことが珍しくありません。長崎大の調査でも、統合失調症と診断を受けた人が、過去に症状が出現してから医療機関を受診し、適切な治療を受けるまでに何年も見過ごされることが明らかになっています。
 精神障害を発症する危険性の高い状態をARMS(アームス、アットリスク精神状態)と呼びます。微弱な数日の幻視や妄想状態、精神病になりやすい特性(家族歴や人格特徴)があり、社会的機能低下のある場合を指しています。発病する数年前から不安や抑うつが前景になることもしばしばあります。
 映画のニナも急激に精神変調を来すのではなく、ARMSや前駆状態といえるような非現実的な症状が徐々に現れてきます。
 ドイツの精神科医クラウス・コンラートは統合失調症が始まる時期の緊張感を、舞台に立つ役者の緊張感に例えて「トレマ」と称しました。ニナはまさしく舞台上で緊張の極みに立ちます。
 残念ながら、不幸な状況になるまで、彼女自身は本当の意味で自分の変調に気付けませんでした。自分の心を観察するのは自分の脳機能ですから、心をとらえることは容易ではありません。純粋に客観的な観察ができないのです。母親が気付いて休ませようとしましたが、追いつめられた彼女には束縛、抑圧ととらえられ反発を買っただけでした。
 心の変調を早く見つけるには、精神に関する情報の開示と教育が重要です。それにはわれわれの内にある「見えないもの」への不安と恐怖(これを偏見と言います)を意識、対象化する勇気とそれを支える教養が必要に思います。心の闇は全ての人が持つ資質です。闇があるから光を認識できるのです。まるで白と黒の白鳥のように。