スタッフ紹介

助教:柴田 英貴
助教:柴田英貴
柴田 英貴 (しばた ひでたか)
Hidetaka Shibata, M.D., Ph.D.
卒 業: 久留米大学 平成14年 ( 学生時代はサッカー部に所属 )
出 身: 私立久留米大学附設高等学校出身
専 門: 消化器疾患
研 究: カルニチンと肝硬変
資 格: 日本内科学会 認定医
日本消化器病学会 専門医
日本がん治療認定医機構 がん治療認定医
日本肝臓学会 専門医
略 歴:
平成14年 長崎大学病院で研修を開始、当時の第一内科で消化器、神経、内分泌代謝膠原病を研修後、循環器内科にて研修。
平成15年 長崎市民病院で2年目の研修。内科を6ヶ月、外科を3ヶ月、放射線科を3ヶ月研修。非常に充実した研修期間であり、外科や放射線科の先生方にも影響を受け、消化器内科医を目指す事にしました。
平成16年 長崎大学第一内科医員、同時に長崎大学大学院入学。
平成20年 博士号取得。同年9月より米国オハイオ州立大学Comprehensive Cancer Centerにポスドク留学。
平成22年 8月帰国、9月より長崎大学消化器内科医員。
平成22年 田川市立病院 内科 医長
平成23年 長崎大学病院 消化器内科 助教
平成24年 長崎大学病院 医療教育開発センター 助教
平成26年 長崎大学病院 消化器内科 助教
抱 負: 一年を振り返って:
学生係として学生の教育・指導を担当しました。消化器内科としての学生実習のあり方についてはまだまだ課題が多いと改めて実感しました。本年度も引き続き学生実習の改善に努めていきたいと思います。また昨年度は医療教育開発センターの助教としての最終年であり研修教育だけでなく、近々内科専門医取得の必須条件となる内科救急の講習会のインストラクターを取得し、大学病院での条件達成のために主体となって開催いたしました。こうした活動は今後消化器内科医を広くアピールすることにも繋がると考えており、教育関連病院に広げていきたいと考えています。本職である研究や臨床の現場では力不足を痛感しているところですが、また一年間よろしくお願いいたします。
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留学体験記

平成14年久留米大学卒業  柴田 英貴

 

 慌しく長崎を去った2008年9月が随分昔の事に感じるようになりました。当時の第一内科消化器班の皆様に盛大な送別会をしていただいた際には、胸にこみ上げるものがあり、あれだけ留学すると言い続けてきたにも関らず、長崎を離れたくないと思った事を懐かしく思い出します。当時の苦しい医局事情を思うと、快く私を送り出してくださった先生方には本当に感謝しています。

 私は今、アメリカ合衆国オハイオ州コロンバスにあるオハイオ州立大学Comprehensive Cancer CenterでKay Huebner教授の下、実験に明け暮れています。

 長崎大学第一内科に入局した2002年、当時研修医当直先であった某施設に向かう送迎車に現在の消化器内科医局長である市川先生と同乗した事がありました。その時先生は私に『消化器班に入って、海外留学なんかしてみてもいいんじゃないか』というようなお話をされました。そのころ神経内科を志していた上に、将来は田舎で臨床医をやる考えだった私は自身が研究活動をするイメージも湧かず、あまり深く考えなかったのを覚えています。
 2年間の研修を終えると、大学病院に勤務する事になったため、研修先で興味が湧いた消化器の大学院に入りました。大学院生はいつかやらないといけないと聞いたので早く終わらせてしまおうという安易な考えでした。大学院生活が始まると同時に、初めて私に留学の話をした市川先生が機関病院から大学に戻られ、私の指導医となりました。このような巡り合わせもあってか、チャンスがあれば海外に出てみようと考えるようになりました。
 しかし、臨床能力も低く、実験も初めてであった私の大学院生活は非常に苦しいもので、日中に消化器内科医としての診療や基本手技を学びつつ、夕方から深夜にかけて実験をするという日々でした。とても研究者として留学するのは不可能だと思えた時期もありましたが、良き先輩方に支えられ、少しずつですが前進し、なんとか医学博士号を取得、有給でのポスドク留学に漕ぎ着けました。一方で消化器内科医としての臨床を続けていたので、渡米前に消化器病学会専門医も取得する事が出来ました。研究を続けるにしても可能な限り臨床と両立させたいと思い続けたことが良かったのでしょうが、何より消化器班がそういう方針だった事がこの結果に繋がったと思って感謝しています。
私が研究生活を続ける事にした理由ですが、実験を始めて、海外の論文に触れ、何かを考え、また実験をする、という事を続けているうちに、興味のある分野に関して世界中の科学者が膨大な実験を続けても解決されていないことが山ほどある、と判った事が挙げられます。途方もない空しさを感じながらも、こんなに判ってないのなら少しくらいは貢献できるのではないかと思うようになりました。ヒトの疾患に関するあらゆる分野の研究は、患者を治すという使命を持つ医師の仕事の一つだと今では単純に感じています。
 海外に出た理由に関しては、とにかく行ってみようと思ったからです。当時の第一内科の留学経験者は、口を揃えて留学経験は素晴らしかったとおっしゃっていました。留学の話を語る先生方の表情や言葉は、それなら私も行ってみようかと感じさせるのに十分でした。私は大学院に入るまで海外生活など考えた事もありませんでしたし、事実パスポートすら持っていませんでした。日本での生活が好きだし、それ以外は必要ないと感じていました。実験に関する大抵のことは日本でも出来ると思っていました。それでも海外留学の事を想像して、こういうメリットとデメリットがあるな、というような空想だけで終わらせるのではなく、実際に体験してみようと思ったという事です。
 さて、実際に米国に来てみると、生活環境のあまりの変化に戸惑い、最初の数ヶ月は何かと辛い事がありました。英語でのコミュニケーションはもちろん、体調を崩したり、各種手続きなどで実験も手に付かず、時間だけが過ぎて行く感じでした。現地の日本人の方々にも幾度となく助けていただきました。年末には生まれて始めての自動車事故にも遭いました。警察とのやり取りや保険の事もあり、2009年の正月は最悪の気分で迎えました。それでも、やっぱりなんとかなるもので、時間はかかりましたが半年ほどで生活も落ち着いてきました。生活が落ち着くと次第に実験の方も進むようになっていきました。Huebner教授をはじめラボのメンバーは、皆優しく感じのいい人たちです。現在、私の他には中国人のポスドク、アメリカ人のラボマネージャーと3人の学生が実験をしています。専門にしていた消化器の分野に囚われることなく実験をするようにしています。いろいろな環境が大きく変わりましたが、それになんとか適応しているというところです。
 私の住むオハイオ州ダブリン市は州都のコロンバス市に隣接し、同市にあるオハイオ州立大学へは毎日高速道路を片道約20分程運転して往復しています。夏は40℃近くまで気温が上がり、冬はマイナス20℃になる日があるほど寒暖の差が激しい所です。春と秋は短かくあっという間にすぎるようです。昨年末からの冬にはこれまでにない経験をしました。降り積もった雪の上を運転するのも、ガレージの前の雪かきをするのも初めての体験でしたし、なにより信じられないほどの寒さを経験しました。冬の体験だけでなく、日本で病院勤務以外はほとんど何もしていなかった私にとって生活のあらゆる事が刺激的です。薄給なので無駄遣いをしないようにしていますが、車でちょっと走ると、様々な店舗があり、必要なものは大抵安く手に入ります。ただ、安いものばかり買うからでしょうか、本当によく物は壊れます。また、日本の食品は割高ですが簡単に手に入ります。住居も気に入っており、ダブリン地区は治安も良いようで、住みやすいという印象です。アメリカ合衆国の事がどんどん好きになってきているのですが、同時に日本は本当に良い国だったのだとも気付かされています。
 実は、一緒に渡米した家族は私よりもずいぶん早く米国に適応していました。子供達は毎日が楽しいらしく、しばらく日本に帰りたくないと言っています。英語をまったく話せなかったにも関わらず、毎日楽しく現地の小学校に通っています。また、私の良き理解者である家内は、小児科医を休職して主婦業をしています。毎日車であちこちに出掛けて行き、買い物だけでなく学校行事や近所との交流をこなしている様子は頼もしい限りです。医師同士の共働きだったため、子供と十分に接する事が出来ていなかった私達夫婦にとって今の生活は非常に貴重な時間なのだろうと感じています。
 これから先の米国生活で、なにか大きな山場が訪れるのか、それとも何事もなく過ぎていくのか、現段階ではわかりませんが、今はとにかく目の前の課題から逃げずにやっていくように心掛けています。まだまだやっと半年が過ぎたばかりです。もちろんもうしばらく頑張ってから日本に帰るつもりでいます。最も重要な事は、日本に戻った後に自分の経験を活かすことだと思っているので、そのための努力を怠らず続けていこうと思っています。