海外留学報告

留学体験記 その1
大仁田 賢

 今回、「海外派遣による自立した若手生命医療科学研究者育成支援プロジェクト」という企画で2ヶ月間アメリカのMayo clinicに短期留学の機会をいただきました。Mayo clinicを選んだ理由は、まず胆膵領域(特にEUS)の勉強をしたいと思ったこと。EUSで有名な病院のうちどこに行くかと考えた時に、ダウンタウンに近く車なしでも生活できること、先輩の磯本先生、同僚の赤澤先生が以前留学しており、磯本先生の橋渡しで比較的簡単に受け入れをOKしてくれたことがあります。磯本先生ありがとうございました。
 Mayo clinicは1846年ミネソタ州ロチェスターに開設された病院で、フロリダ州、アリゾナ州にも支部を置いています。常に全米で最も優れた病院のひとつに数えられている病院で、2010年度のランキングでは総合第2位、消化器部門では第1位となっています。
 6/20日本を出発し、不安を抱えながら成田空港からセントポール国際空港に直行便で到着。入国審査で入国の目的、滞在期間、滞在場所、所持金など想定質問に答えたつもりでしたが、なぜか別室へ行けとの指示がありました。そこでしばらく待たされ、同じような質問をされたあげく、Mayoからの受け入れの手紙を見せるようにと言われ、たまたま機内持ち込みのリュックの中に入れていた手紙を見せようやくパス。予約していたロチェスター行きのバスにぎりぎり間に合い、約1時間半バスに揺られロチェスターに到着しました。ロチェスターは小さな町で、大きな建物はほとんどがMayo clinicのビルと、駐車場、ホテルで、Mayo clinicで成り立っているような町でした。バスを降りバスの運転手にホテルの場所を聞いたところ、自分の発音が悪かったのか同じ系列の別のホテルの場所を教えられ、ホテルのフロントでここではないと言われさらに不安が増しました。前途多難な立ち上がりでしたが、フロントの人が親切に地図をくれて説明してくれ、なんとか目的のホテルにチェックインできました。ホテルは長期滞在者用でキッチン、冷蔵庫、電子レンジ、ソファーも付いており2ヶ月であれば問題なく過ごせそうな部屋でした。
 仕事の話に移りますが、Mayo clinicの消化器内科は約10個のグループに分かれており、今回お世話になるのはAdvanced Endoscopy というグループです。ここでは主にEUSでの診断・治療、ERCP、消化管狭窄に対するstenting、Barrett食道の治療などを行っています。ボスのDr. Levyは主にEUS、その他ERCPを専門にしていますのでEUSを見せてもらいながら時々ERCPも見学しています。ここでは毎日EUSが8~12件(2部屋)、ERCPが4~6件(1部屋)組まれており、その日の担当医師が決まっています。EUS担当の医師は朝から夕方までEUSを4~6件担当します。検査開始は朝8時と早いのですが、16時頃には終了するので、自分の担当の検査が終了すれば帰っていいようです。こちらではEUSはほとんどコンベックス型を用いており、ラジアル型はほとんど使っておりません。症例は膵腫瘍、慢性膵炎、進行癌のリンパ節腫大の精査などが多く、生検目的のEUS-FNAは毎日のようにあります。また、EUSを用いた腹水穿刺や膵仮性嚢胞ドレナージ、腹腔神経叢ブロックも見せてもらいました。ERCPもその日の担当医師が朝から夕方までERCPを行っています。症例は胆管癌に対するステント挿入や総胆管結石のESTに加え、肝移植後の患者さんが多いようで、吻合部狭窄の拡張、チューブステントの入れ替え、シングルバルーン内視鏡を用いた胆管空腸吻合部の拡張術などがあります。日本との違いはERCPに関してはほとんどが全身麻酔で挿管された状態で行われています。またEUSに関しても症例によっては全身麻酔で行われています。全身麻酔ではない検査も全例sedationをかけています。また、アメリカ人は内視鏡がうまくないという話もよく聞きますが、決してそういうことはなく指導する立場の先生はEUS、ERCPとも上手です。ただし、どの先生も親切に説明してくれるのですが、自分の英語力がないために十分に理解できていないのが難点です。赤澤先生くらい英語力があればもっと何倍もためになったものと思いながら、普段から英語を勉強しておくべきだったと反省しています。細かいこつなど聞けないので、何とか盗めるところは盗めるように頑張りたいと思います。
 日常生活に関しては、こちらには日本人留学生が比較的多く、特に赤澤先生が留学していたときの友人が残っており、非常によく面倒をもらっています。歓迎会、食料の買い出し、メジャーリーグの試合観戦、カヤックでの川下り、バーベキューなど企画してもらい楽しく過ごしています。またメールやSkypeで赤澤先生にいろいろと助けてもらい、いい後輩を持った幸せとインターネットがなかった時代に留学された先生方の苦労は並大抵のものではなかっただろうと実感しています。
 現在約1ヶ月が経過し、今後少しは英語がわかるようになるのか全く進歩がないのかわかりませんが、残り1ヶ月間楽しみたいと思います。人手不足で忙しい時期に留学させて頂き、中尾教授はじめ医局の先生方に感謝いたします。

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留学記
宮明 寿光

平成9年入局の宮明です。みなさんお元気でしょうか。
現在私はイタリアのボローニャに留学しています。
皆様に盛大な壮行会をしていただいた2日後に長崎をでて、羽田発の英国航空でロンドン経由でボローニャにたどり着きました。ボローニャは欧州最古のボローニャ大学がある、学生の町です。観光地ではありませんが、イタリア人が住みたい町を調査すると必ず上位に上がるらしいです。理由は中心街(チェントロ)をはじめとして町がコンパクトにまっとまっており、必要なものは十分調達でき町のサイズが大きすぎも無く、小さすぎもなくといったところらしいです。
私が留学しているのはPoliclinico S. Orsola-Malpighi(病院の名前)の内科学教室です。主任教授はBolondi教授です。教授は超音波が専門で、主に肝臓癌の研究を行っています。私はこの病院内のLaboで研究しています。研究の内容は肝細胞癌のmicro RNAを中心とした、分子メカニズムの研究です。Laboのメンバーは若い、女性が多く、写真にあるように女性が7割を占めています。もちろん私の指導も若い女性が行ってくれています。
またボスは超音波が専門ということで、マウスやラットの肝癌に超音波をあてるというこの場所ならではの、in vivoの実験も行っており、見学させててもらっていますがなかなか興味深いです。
一般的に留学というと多くの方がアメリカだし、こちらでもなんでイタリアに来たのと聞かれます(イタリア留学顔?ではないとかいわれます)。最初はいろいろまじめに答えていましたが、最近面倒くさいのでイタリアのほうが生活が楽しそうだからとか食べ物がおいしいとか答えると妙に納得されたのでそう答えるようにしています。
今回はイタリアのビザ取得から滞在許可証のことについて書いてみてと、医局長から指令が出ましたのでそのことについて書きます。まず、ビザ取得なのですが、イタリアのビザは長崎在住者(日本の西側在住者)は大阪のイタリア領事館に行かなくてはなりません。ビザに必要な書類を領事館のホームページで確認し、領事館に向かい担当の方に、書類をcheckされます。すると住居証明(大家さんが貸しますよとの証明)がないとだめですよ、とあっさり1回目はrejectでした。そんなことホームページに書いてないよと思いましたが(よくみると必要書類はこれ以外のものも必要なことがあるので電話で問い合わせてと書いてあります)、もう探すしかありません。探すといっても外国でそんなに簡単に見つかるわけではなく、途方にくれていましたが、何とかイタリア語の先生の友達がボローニャに在住していることがわかり、その方に捜してもらうことになりました。でもその友達の方も仕事の合間に探してくれている状態であり、また住居を借りる本人不在で契約するのはなかなか進まずかなり切迫してきましたが、ようやく1ヶ月程してアパートメントが決まりました。そして住居証明を郵送、出発予定の1週間前に無事ビザを取得することができました。
そうして無事?に出発できた私でしたが、このビザがその後の滞在に問題になってくるとは思いもよりませんでした。
その後イタリアに到着。次にイタリアに3ヶ月以上在住する外国人はペルメッソ(滞在許可証)を入国後営業日8以内に申請しなくてならないことになっています。しかしペルメッソは留学生にとって最初にして最大の難関といわれています。まずはこのペルメッソを郵便局にもらいに行くんですが、イタリア語もわからないので周囲の人に聞けず(英語は通じません)、大家さんもミラノの人だしその郵便局がなかなか見つかりません。イタリアに来て5日目にインターネットができるようになり、やっと郵便局を探し当てました。その後郵便局でペルメッソの申請用紙をもらったのですが、これが全部イタリア語で書かれていました。外国人が申請するわけなのでせめて英語でと思いますが・・。インターネットを参考にして何とか調べて完成、イタリア到着後6日目にしてようやく提出できました(提出したときもイタリア語で話されたけど身振りでなんとか突破)。その後1ヶ月ほどして呼び出しがあり、クエストゥーラ(警察署)に出頭し、指紋取りがあるとのことでした。呼び出し時間の40分前には多くの外国人が呼び出しを待っていました。ここでも全部イタリア語で、予約時間を20分ほど過ぎた頃、私も呼ばれて、指紋取りをされて、無事終了。あ~終わったと思っていましたが、その指紋取りの最後にイタリア語で担当の人がなにかチェントロ(市街地)の方に行けと言っていたような気がしました(イタリア語全然わからないけど)。でも周りの終了した人はみんな帰っているみたいだし、まあいいかと思って、バスで家に帰って、もらった書類をよく見てみて、辞書で訳してみると、“また指紋を取らなければならねい、今度は違う場所に来るように”と書かれており、日付けもその日と指定さていました。そこでその場所をネットで調べて(その紙には地図もなくて住所だけ書かれていました。これもみんな外国人なので地図くらいと思いますよね)、再度家から中心街に向かいました。今度の場所はものすごくわかりにくい場所にありましたが、何とか探しあてて、今度は1回目より念入りに指紋をとられ (何で2回もとるのと思いながら)、身長をはかられ、“ポスト(終わり)”といわれようやく終了とあいなり、現在はこのペルメッソを待っている段階なんですが、発行されるまでに最低3ヶ月、長い人は1年もかかるらしいのです。ただペルメッソがないと家族呼び寄せも車もかえない、海外にも行けないということで、なかなかイタリアの手続き厳しいです。
でその後滞在許可証は4ヶ月で申請し(ボローニャからの招聘状が4ヶ月だった)、その後延長するつもりでいたので、この滞在許可証の延長と家族呼び寄せについて弁護士に相談に行きました。すると弁護士の回答はこのビザは学生ビザだから延長もできないし(招聘状にはこの人は学生の身分と書いてあるらしいのでした)、家族呼び寄せもできないとのことでした。え~という感じです。
というわけでみなさん私9月末に一旦帰国します。決して働きが悪くて追い返されたわけではありませんが、制度の問題上やむを得ず。またビザを取得後12月にイタリアに行く予定です。今度はビザの期間を長めにとってです。

以上長くなりましたが、私の学生ビザ、滞在許可証取得編でした。今回書いた文を見るとすごく苦労しているようですが、普段は留学生活を楽しんでいますので、次回は楽しい様子を報告したい思います。
最後に中尾教授をはじめ、今回の留学に際しては、さまざまな方にお世話になっています。厚く御礼申し上げます。

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Mayo 2ヶ月の留学生活を終えて
赤澤 祐子

 今年9~10月にかけて、「海外派遣による自立した若手生命医療科学研究者育成支援プロジェクト」という企画でMayo Clinic のGastroenterology and Hepatology research 部門で基礎研究をしてきました。ここは2009年まで留学していたところでした。 行ってみると、2年前に去ったロチェスターは変わっておらず、友人や同僚たちも暖かく迎えてくれました。財布を忘れてスタバに行くと、ただでコーヒーをくれるようなおおらかな町です。(知らない人とすれ違っても微笑み合うくせがついてしまうので、日本に帰ると、変な人と思われます。)久しぶりにラボに行くと、2年前にドアのところに忘れていた自分のスカーフがそのままかけてあったのにはちょっと驚きでした。ボスのDr. Goregory Gores(写真左)は、消化器のDepartment Chairでもあり、AASLD(アメリカ肝臓病学会)のオーガナイザーを務めたこともある、名の知れたscientistでもあります。ラボの主なテーマは肝細胞癌/胆管細胞癌における分子標的役の作用機序や脂肪肝の基礎実験です。ボスはアメリカ出身ですが、イタリア、ドイツ、スイス、インド, 日本など各国からのフェローやスタッフがいて、ほとんどが私のようなmedical doctorです。ちなみにスイスでは、消化器内科医の数が厳密にコントロールされていて、誰でもなれるわけではないらしいです。私たちは希望すれば勝手になれるので幸せですね。
 研究分野では、2年の間に新しいコンセプトが沢山生まれていて、勉強になりました。今回の自分研究は、脂肪酸が肝細胞にアポトーシスを起こす機序について検討してきました。基本的には、培養肝細胞に脂肪酸をふりかけ、その死んでいく様を観察しつつ、その時にどのような蛋白に変化が起きるのかを見る一見地味な作業です。それが将来NASHの病態解明と治療に生かせることを夢見つつ・・・。ラッキーなことに必要な細胞株、薬品などがすべてそろっていたため、順調に実験が進み、最終日にボスに論文の原稿を渡すことができました。休みの日には昔の友人たちとも飲みにいったり、家によんでもらったり、ひっこしを手伝ったりと多忙ながら楽しい時間がすごせました。
 2ヶ月の留学でしたが、私にとって1年の価値がある経験だったと思います。学会前の人手が足りない時に長期の留守を許していただいた中尾教授をはじめ、医局の皆様に大変感謝申し上げます。

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留学体験記
三馬 聡

2010年8月より、米国オハイオ州コロンバスにあるオハイオ州立大学Comprehensive Cancer Centerへ後輩の柴田先生のあとを引き継ぐ形で留学させていていただいている三馬です。私は大学卒業後、長崎大学第一内科へ入局、5年目より消化器内科を専門として臨床に従事していましたが、7年目より大学院生として大学に戻り、大学院卒業時には無事博士号も取得できました。ただ再び臨床に戻る前に、もう少し実験、研究をやりたい気持ちがあり、今回留学させていただくこととなりました。大学在学中は多くの面で諸先生方に御迷惑ばかりおかけしていましたが、この度は快く留学へと送り出していただき本当にありがとうございます。実験、研究をもう少しやりたい気持ちとともに、今回留学したいと考えさせられたもう一つの大きな契機は、2年前のサンフランシスコで行われたAASLDに参加したことでした。今まで写真やテレビでしか見たことがない海外の人々、風景が目の前にあり、何も分からないことだらけであることが、非常に不安であるとともに逆に非常に刺激的に感じました。世界が広がる、とはこのことだと、よくいえば冒険心です。留学前大学在学中に後輩に、「留学って不安じゃないですか?」と聞かれ、「まぁ不安だけど、ドラクエで言えば船を手に入れるような気持ちだよ」などとうそぶいていましたが、これは半分は本当です。

8月9日、原爆投下のサイレンが鳴る時分に、寄せ書きが書かれた日本国旗を手荷物に携え、長崎を発ちました。シカゴオヘア空港での入国審査および税関審査で予想外に時間がかかり(特に不審な点があったわけではありません)、またオヘア空港が広く移動に時間がかかってしまったこともあり、結局予定のオハイオ行きの飛行機には乗れず、といったハプニングはありましたが、22時間後になんとかオハイオ州に無事たどりつきました。到着すると後輩の柴田先生が家族共々空港まで迎えに来てくれていて、非常にほっとしたのを覚えています。今回、留学に際し私が幸運だったのは、柴田先生の引き継ぐ形で留学することができたことでした。留学を経験された先生方の多くが言われますが、やはり渡米直後の生活のセットアップは非常に大変です。私の場合、柴田先生がまさに獅子奮迅の働きをし、アパートメントの手配、家財道具の運び入れ、車の手配(柴田先生が乗っていた車を譲り受けました、赤のカローラで“柴田号”と名付けています)などをしてくれていました。さらに、渡米後も自動車免許申請、銀行の口座開設など手伝っていただきました。大学の仕事の引き継ぎも週末にナイアガラの滝とイチローの試合を見ながら済ませました。私はこの点非常に幸運であり、一から家を探し、車を手配し、最低限必要なものを購入していくとういのは、英語が堪能でもない限り困難ではないかと思います。柴田先生には自身の出国も近づいている忙しい時期に最大限手伝っていただき本当に感謝しています。本当によき後輩を持ちました。また自分が帰国する際、引き継ぐ後輩がいれば最大限手伝ってあげたいと思います。

こちらオハイオ州コロンバスは、渡米当初は気温は高くともじめじめとした感じもなく、過ごしやすい気候でしたが9月も末になってくると徐々に寒くなってきました。冬になると雪掻きも必要になると聞いていますが、もちろんまだ経験していません。一方、食事に関してはやはり日本人のためか、それとももともと米好きなためか、毎日アメリカンスタイルというのは抵抗がありますが、幸運にも私のアパートメントのすぐ近くに日本人向けのスーパーマーケットがあり、そこで米、味噌などの日本食が手に入ります。作りたければバーモンドカレーもあるのでカレーも食べられます。なんとかやっていけそうです。私のアパートメントから大学までは車で約10分程の距離で毎日車で通学しています。途中ジャック・ニクラス博物館(ジャック・ニクラスはコロンバス出身だそうです)も見られます。左ハンドル、右側通行、マイル表示にもだいぶ慣れてきました。オハイオ州立大学は学生数5万を超える非常に規模の大きい総合大学で、学内には飛行場もあります。アメリカンフットボールの名門でもあり、地元の愛着も強く、週末になるとスクールカラーの赤い服を着たオハイオ州の人々がフットボール場へ集まって来ます。その日は大学内の病院駐車場もフットボールの観客用に解放され熱気がすごく、警官も大学構内で交通整理をするなど大渋滞です。働き始めてしばらくしてそのことに気づき、今ではフットボールの日程を考慮しその日は避けるようにして実験の予定を立てるようにしています。

現在は、Kay Heubner教授の下、中国人の先生、アメリカ人の大学院生とともに実験に従事しています。また医学部学生3人が実験の手伝いをしてくれています。私は全く英語が不得手でありますが、Heubner教授は非常に優しく、私のつたない英語も辛抱強く聞いてくださり、また毎日私のことを気遣ってくれます。最近になって、ラボ内では英語で会話までいかなくとも何となく意思の疎通はできるようになってきました。ただ自分が話したいことがなかなか言えない、適切に表現できないもどかしさは感じます。現在Heubner教授よりテーマを与えられており、ある蛋白が癌のチェックポイント機構に対して翻訳後修飾過程で作用していないか、ということについて研究を行っています。1つのヒト細胞の染色体DNAの中では、1日あたり1万以上もの数のDNA損傷が自然発生することが報告されており、この損傷が十分に修復されないと変異が蓄積し発癌の原因となります。チェックポイント機構とは、この変異に対して損傷修復あるいはアポトーシスに導く、細胞内の様々な分子機構のことです。現在はテーマを理解しこなしていくことに必死ですが、さらに今後は自分が感じる疑問に対して感受性を持ち続け、解決していきたいと考えております。

愛犬キジを日本に残し、不安と寂しさいっぱいで渡米しましたが、徐々にアメリカの地に足が着いてきたようです。多くの留学された先生方は、あの頃が一番楽しかった、とよく遠い目をして言われますが、私はまだそこまで楽しむまでは至っていません。大学から空を眺め、飛行機が飛びたっていくのをみると,未だ望郷の思いに駆られることもあります。情報網が発達し、日本の研究レベルも欧米に比較してひけとらなくなってきている現在、以前のように留学によって新たな実験のテクニックを身につけるといったい意味合いは薄れてきているように感じますが、その一方で留学を経験すること自体が、医者として、また人間的に、自分自身を一回り大きくさせてもらえるよう感じています。少なくとも、今私は、人生の中で一番刺激的な毎日を送っていることは間違いないようです。これから先どうなるかは分かりませんが、自分の中で悔いのないようがんばってきます。そして多くのことを学び、自分のものにし、帰国した際には、後輩達に何らかの形で還元できればと考えています。

東日本大震災レポート(米国オハイオ州から)

いつものように朝、慌ただしく大学へ行く支度をしている時、何気なくつけていた朝8時のABCのトップニュースでNHKの映像が流れていた。”Earthquake”, “Tsunami”の文字とともに、多くの家屋、車が津波にのみ込まれていく映像が繰り返し流されていた。その映像はまるでSF映画でも見ているようで現実を感じ得なかったが、その時初めて日本に大震災、津波が起こったことを知った。続いて、ハワイにも津波が来る、といったことが何度も報道されていた。

 

私は今回、東北大震災を留学中のオハイオ州の地で知った。こちらでも甚大な被害について繰り返し報道され、震災数日は震災の報道一色であった。今なお、原発の問題については専門家を交えて現況に対する分析がニュースで報道されている。我々の日常生活は、関東地方などからの郵送が制限されているなどのごく限られたものであり大きな変化はなかったが、私が働くオハイオ州立大学、及びオハイオ州では、様々な催し、募金活動が行われている。今回の大震災における周囲の反応、及び自身が感じることについてご報告いたします。

 

 

大震災直後より、アメリカ合衆国、及びオハイオ州、オハイオ州立大学にて、多くのガレージセール、コンサートなどの催し、募金活動が行われており、オハイオ州立大学、及びオハイオ州立大学日本人会を通じ、多くのメール、案内が届いた。下記以外でも多くの活動が現在も行われている。

 

オハイオ州立大学での募金活動
Stay Strong Japan, Student Fundraising Activity
Stay Storong Japan PDFPDF-238KB
(http://www.flickr.com/photos/osujapansupport 日本への写真メッセージ)

 

3/24/11: Candlelight Vigil (ともしびの集い), Thomas Worthington High School
3/27/11: Seiko Lee Soprano Benefit Concert (募金コンサート), Dublin Recreation Center
4/2/11: Craft & Bake Sale (クラフト・ベイクセール)
4/2-3/11: Dublin Charity Garage Sale (ガレージセール)
4/13: Craft & Bake Sale (クラフト・ベイクセール)

 

3/14-18/11: Sup4/25: Cranes for Kids: Giving Hope to the Children of Japan (折鶴プロジェクト)
4/14: Wyandot Run Classroom Charitable Project Opportunity (チャリティプロジェクト)
4/15: Clintonville Hope for Japan - Red Cross Appeal (日本に希望を-アメリカ赤十字)
4/22: JET Program Alumni Earthquake Relief Fundraiser (JETプログラム同窓会による地震募金活動)
4/24: JSO Japanese Spring Festival/Fundraiser for the Japan Disaster Relief Fund
4/29: 2011 Japanese Relief Concert
ほか

 

アメリカでも震災直後より、テレビでは連日震災関連のニュースが流されていた。壊滅的な被害を受けた被災地の映像が繰り返し流されるとともに、特別番組も組まれその被害の大きさについて大々的に報道されていた。また震災直後、すぐにオバマ大統領や政府高官と思われる人々より、日本支援の姿勢が打ち出されていた。その一方、甚大な津波による被害と比較し日本の建造物の倒壊の少なさにも触れ、耐震性の高さについて驚きをもって報道されていたようである。耐震技術に優れた日本の建物でなければより被害は拡大していたであろう、と言った論調であった。被害の状況が詳細になるとともに、次第に原発問題がクローズアップされていった。日本政府の対応に関しては残念ながらあまり好意的に報道されてないような感じである。日本政府が原発周囲12マイルの避難勧告範囲を設定したのに対し、アメリカ政府は50マイルに設定していることも報道されていた。原子炉の状況は図説も交え詳細に報道され、地震より約一ヶ月以上経過した今日でも、専門家とともに現況分析、チェルノブイリ原発事故との比較などが行われている。アメリカのある州では、ごく微量の放射能が検出されヨウ素の買い占めが起きていることが報道されていた。これについて医師がもともと極微量は検出されており、今回検出されたものも極微量でヨウ素の必要性は全くない、と正していたが、放射能についてはアメリカ人も非常に敏感になっていることが伺われる。ちなみにテレビで見る限り、被災市民への取材はほとんど日本人に対しては行われておらず、日本に在住するアメリカ人に対する取材がほとんどであった。

 

職場の同僚は、日本の建物の耐震性の高さに感心していた。そしてなにより、暴動、略奪が起こらない、日本人の混乱しない、我慢強い、秩序だった行動に非常に驚いており、アメリカではあり得ないよ、と話していた。私が通っている英会話の先生も、クラスのディスカッションの中で、”Sympathy for Japan, and Admiration(日本への同情と尊敬の念)”と書かれたニューヨークタイム誌のコピーを配り、そのことにについて賞賛されていた。多くの国々の人々と行動を共にしてみると、改めて日本人と外国人の国民性の違いに気づかされるが、その中で日本人の自己主張をしない消極的な国民性といったものは決して評価されないよう感じる。沈没しつつある客船の船長は、女性と子供以外は船に残るように求める時、米国人には「あなたは英雄になれる」、英国人には「残れば紳士です」、イタリア人には「女性にもてます」、そして日本人に対しては「みんな残ります」と言う、といった有名なジョークがあるほどである。ただこの国民性は、他人を尊重し、我慢強いといった日本人の国民性とまた表裏一体のものでもある。その国民性によって保たれた震災における一般市民の秩序が非常に評価、賞賛されることに日本人として私は非常に誇らしさを感じたが、その一方で少し不思議な感じもした。

 

今でも震災の話は同僚との間で時に話し、これから日本はどうなるのだろうかと言う話になる。また原発の問題が将来の復興に対する大きな障害であることは周知の事実であり、関心も高い。その中で今後の震災からの復興を願う気持ちというものは、日本人も外国人に何ら相違ないのは間違いないようである。最後に、震災直後にいただいた英会話教室の先生からのメッセージ、および職場の同僚からのメッセージを添付いたします。

 

At this time, I would like to extend my sympathy and condolences to you on the current tragedy in Japan.  You are safe here, but I hope that all of your family is safe.  The pictures on TV are unbelievable, something out of a Hollywood movie.  The suffering and destruction are more than anyone can bear, yet I see the Japanese people have courage and are working closely together to help each other.  Know that the world will help and that the Japanese people are resilient and will come through this tragedy stronger than ever.

My thoughts & prayers are with the people of Japan.
Sincerely,

 

 

I knew the recent Japan earthquake and tsunami right after it happened. I am very sorry about this and hope that Japanese who suffered from the disaster can recover as soon as possible. Congregations in my Chinese Christian church in Columbus are praying for the victims and initiated a donation designated to help Japan. I am also aware of the leakage of nuclear radioactive material as a result of the earthquake. I wish this issue can be solved soon and the damage can be contained.

 

Sincerely yours,

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留学体験記
平成14年久留米大学卒業  柴田 英貴

 慌しく長崎を去った2008年9月が随分昔の事に感じるようになりました。当時の第一内科消化器班の皆様に盛大な送別会をしていただいた際には、胸にこみ上げるものがあり、あれだけ留学すると言い続けてきたにも関らず、長崎を離れたくないと思った事を懐かしく思い出します。当時の苦しい医局事情を思うと、快く私を送り出してくださった先生方には本当に感謝しています。

 私は今、アメリカ合衆国オハイオ州コロンバスにあるオハイオ州立大学Comprehensive Cancer CenterでKay Huebner教授の下、実験に明け暮れています。

 長崎大学第一内科に入局した2002年、当時研修医当直先であった某施設に向かう送迎車に現在の消化器内科医局長である市川先生と同乗した事がありました。その時先生は私に『消化器班に入って、海外留学なんかしてみてもいいんじゃないか』というようなお話をされました。そのころ神経内科を志していた上に、将来は田舎で臨床医をやる考えだった私は自身が研究活動をするイメージも湧かず、あまり深く考えなかったのを覚えています。
 2年間の研修を終えると、大学病院に勤務する事になったため、研修先で興味が湧いた消化器の大学院に入りました。大学院生はいつかやらないといけないと聞いたので早く終わらせてしまおうという安易な考えでした。大学院生活が始まると同時に、初めて私に留学の話をした市川先生が機関病院から大学に戻られ、私の指導医となりました。このような巡り合わせもあってか、チャンスがあれば海外に出てみようと考えるようになりました。
 しかし、臨床能力も低く、実験も初めてであった私の大学院生活は非常に苦しいもので、日中に消化器内科医としての診療や基本手技を学びつつ、夕方から深夜にかけて実験をするという日々でした。とても研究者として留学するのは不可能だと思えた時期もありましたが、良き先輩方に支えられ、少しずつですが前進し、なんとか医学博士号を取得、有給でのポスドク留学に漕ぎ着けました。一方で消化器内科医としての臨床を続けていたので、渡米前に消化器病学会専門医も取得する事が出来ました。研究を続けるにしても可能な限り臨床と両立させたいと思い続けたことが良かったのでしょうが、何より消化器班がそういう方針だった事がこの結果に繋がったと思って感謝しています。
私が研究生活を続ける事にした理由ですが、実験を始めて、海外の論文に触れ、何かを考え、また実験をする、という事を続けているうちに、興味のある分野に関して世界中の科学者が膨大な実験を続けても解決されていないことが山ほどある、と判った事が挙げられます。途方もない空しさを感じながらも、こんなに判ってないのなら少しくらいは貢献できるのではないかと思うようになりました。ヒトの疾患に関するあらゆる分野の研究は、患者を治すという使命を持つ医師の仕事の一つだと今では単純に感じています。
 海外に出た理由に関しては、とにかく行ってみようと思ったからです。当時の第一内科の留学経験者は、口を揃えて留学経験は素晴らしかったとおっしゃっていました。留学の話を語る先生方の表情や言葉は、それなら私も行ってみようかと感じさせるのに十分でした。私は大学院に入るまで海外生活など考えた事もありませんでしたし、事実パスポートすら持っていませんでした。日本での生活が好きだし、それ以外は必要ないと感じていました。実験に関する大抵のことは日本でも出来ると思っていました。それでも海外留学の事を想像して、こういうメリットとデメリットがあるな、というような空想だけで終わらせるのではなく、実際に体験してみようと思ったという事です。
 さて、実際に米国に来てみると、生活環境のあまりの変化に戸惑い、最初の数ヶ月は何かと辛い事がありました。英語でのコミュニケーションはもちろん、体調を崩したり、各種手続きなどで実験も手に付かず、時間だけが過ぎて行く感じでした。現地の日本人の方々にも幾度となく助けていただきました。年末には生まれて始めての自動車事故にも遭いました。警察とのやり取りや保険の事もあり、2009年の正月は最悪の気分で迎えました。それでも、やっぱりなんとかなるもので、時間はかかりましたが半年ほどで生活も落ち着いてきました。生活が落ち着くと次第に実験の方も進むようになっていきました。Huebner教授をはじめラボのメンバーは、皆優しく感じのいい人たちです。現在、私の他には中国人のポスドク、アメリカ人のラボマネージャーと3人の学生が実験をしています。専門にしていた消化器の分野に囚われることなく実験をするようにしています。いろいろな環境が大きく変わりましたが、それになんとか適応しているというところです。
 私の住むオハイオ州ダブリン市は州都のコロンバス市に隣接し、同市にあるオハイオ州立大学へは毎日高速道路を片道約20分程運転して往復しています。夏は40℃近くまで気温が上がり、冬はマイナス20℃になる日があるほど寒暖の差が激しい所です。春と秋は短かくあっという間にすぎるようです。昨年末からの冬にはこれまでにない経験をしました。降り積もった雪の上を運転するのも、ガレージの前の雪かきをするのも初めての体験でしたし、なにより信じられないほどの寒さを経験しました。冬の体験だけでなく、日本で病院勤務以外はほとんど何もしていなかった私にとって生活のあらゆる事が刺激的です。薄給なので無駄遣いをしないようにしていますが、車でちょっと走ると、様々な店舗があり、必要なものは大抵安く手に入ります。ただ、安いものばかり買うからでしょうか、本当によく物は壊れます。また、日本の食品は割高ですが簡単に手に入ります。住居も気に入っており、ダブリン地区は治安も良いようで、住みやすいという印象です。アメリカ合衆国の事がどんどん好きになってきているのですが、同時に日本は本当に良い国だったのだとも気付かされています。
 実は、一緒に渡米した家族は私よりもずいぶん早く米国に適応していました。子供達は毎日が楽しいらしく、しばらく日本に帰りたくないと言っています。英語をまったく話せなかったにも関わらず、毎日楽しく現地の小学校に通っています。また、私の良き理解者である家内は、小児科医を休職して主婦業をしています。毎日車であちこちに出掛けて行き、買い物だけでなく学校行事や近所との交流をこなしている様子は頼もしい限りです。医師同士の共働きだったため、子供と十分に接する事が出来ていなかった私達夫婦にとって今の生活は非常に貴重な時間なのだろうと感じています。
 これから先の米国生活で、なにか大きな山場が訪れるのか、それとも何事もなく過ぎていくのか、現段階ではわかりませんが、今はとにかく目の前の課題から逃げずにやっていくように心掛けています。まだまだやっと半年が過ぎたばかりです。もちろんもうしばらく頑張ってから日本に帰るつもりでいます。最も重要な事は、日本に戻った後に自分の経験を活かすことだと思っているので、そのための努力を怠らず続けていこうと思っています。

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留学体験記
平成10年長崎大卒業 松本 幸次郎

アメリカ臨床医経過報告 【2010年4月】

2009年7月より米国イリノイ州の州都スプリングフィールドにあります州立大学南イリノイ大学スプリングフィールド校Family Medicineで3年の予定で研修医をしております松本幸二郎です。 今回はアメリカでの研修医生活を経過報告させていただこうと思います。以前消化器内科のホームページに寄稿させていただいた際も述べましたが、教室にとっては放蕩三昧の私が留学記など書く資格はなく大変恐縮に感じております。アメリカで研修を始めてまだまだ9ヶ月であり、かつ南イリノイ大学スプリングフィールド校のみの対象症例N=1の非常に偏った私見であることをご了承ください。

私の所属するFamily Medicineはすべての年齢層と疾患を対象としており、年4回のFamily Medicineの入院患者を診る月以外は異なる専門科を月毎にローテーションするというシステムになっております。
現在の所、産婦人科、整形外科、外科外来、ICU、Behavioral Science(精神科と重複する領域です)を回りました。 Family Medicine Inpatient(入院)やICUといった入院患者を診るローテーションでは日本で働いていた頃に近い忙しさですが、それ以外のローテーションは比較的ゆったりした生活を送ることができます。
いくつか項目を分けて研修の様子を以下に書きたいと思います。

<研修全般>
指導教官は、医師、薬剤師、Nurse Practitioner、Social Worker、助産婦など多様な職種で構成されています。レジデントは各学年8名の3学年合計24名となります。
週1回3時間の全体カンファランスがあり、他科ローテーション中のレジデントも含め参加可能なスタッフが全員集まります。 他施設からの招待演者や、スタッフ、研修医などが様々なトピックを話します。 あくまで研修医の指導がメインの内容なので、実践に即したものとなります。 なかには弁護士がきて法的な話、経済的な話をしたり、小グループに分かれてさまざまな疾患の診察法を指導医が直に指導したりもします。 また、レジデント一人一人にMentorと言う指導医が割り振られており、研修の進み具合や悩み、要望がないかなどなんでも相談できる機会が3ヶ月に一度は設けられています。その際には、年1回の筆記テストの結果や点数化されたレジデントの評価などを踏まえて、改善があればアドバイスしていただけます。また、何か特別な研修をしたい場合は相談するとなるべく対応してくれるようです。 私の場合、アメリカで内視鏡ができるようになりたいと思っているため、内視鏡のトレーニングができないかローテーションの調整を現在行ってもらっています。 Family Medicineという特性上、整形外科、皮膚科、小児科、産婦人科精神科など内科出身の私には難しい分野がありますが、「あらゆる疾患及び患者に対応できるようになりたい」と思っている私にとっては非常に勉強になる研修です。

<入院受け入れ>
On call doctor (労働時間は朝6時から翌日午後1時までで、午後10時半までの入院受け入れ、全ての入院患者及び出産に対応) とNight Hawk(午後10時半から翌朝9時までの入院受け入れのみ) の二人のみで全ての入院受け入れを行います。 多くの患者はまずERに赴き、ERの医師が必要な検査、治療、他科紹介をまず行い、その後Family MedicineのOn-callかNight hawkに連絡がきます。また日本同様、病棟に直接入院してくることもあります。基本的に病歴と検査結果はコンピューターシステムに入っているのですが、膨大な情報の中から必要な部分のみ抽出するのは簡単ではありません。私が日本にいた頃は、紙の外来カルテ、退院サマリー、以前の入院カルテを引っ張り出し時間をかけて調べていましたが、こちらでは患者の病歴収集、診察、考察、治療方針検討を約1時間で済ませるのが理想的な感じです。指導医と電話を介して治療方針を最終決定したのち、全てのオーダーを出し入院受け入れ作業はひと段落です。
画像検査を含めほとんどのオーダーは夜間であろうが時間帯に関係なく速やかに施行されるため、入院期間1日というのが非常に多く、逆に1週間以上だと長い印象があります。日本と比較すると入院での経過観察という概念がないのではと思うほどすぐ退院し、患者の状況によっては訪問看護やナーシングホームという療養型に移ったりします。そのためか退院直後の再入院は日本よりはるかに多い様です。

<入院での日々の仕事> 
朝6時頃に病棟に行き、カルテや検査結果のチェック、患者さんの診察、研修医の判断でできるオーダー、カルテの記入を行います。私の場合一人あたり20分から30分かかります。毎日9時から病棟カンファランスが始まり、担当患者の報告を行います。指導医一人、3年目レジデント一人、1年目と2年目レジデント5名の合計7人が一つのチームとなっております。さらに医学部生、薬学博士(PharmDといいます)などが加わることがあります。 2時間強のカンファランス終了後は、指導医と3年目レジデントは病棟回診を行い、それ以外のレジデントは追加の指示やカンファランスで退院が決定した患者の退院オーダーを出し午後は外来、on-call Drのバックアップ、また当直後であれば帰宅となります。退院時診断名、プリントアウトした退院時処方に継続、中止などのチェックマークを入れ、必要であれば処方箋を書き、退院後の外来診察日と外来担当医の電話番号などを指示簿に書き、クラークに渡せば退院処理は終了となります(基本的に指示簿に書くのみで終了し、日本と比較するとかなり簡潔な作業です)。独居、家族との問題、ホームレス、無保険、ホスピスや訪問看護利用など問題を持つ患者さんはソーシャルワーカー介入と指示簿に書いておけば、後は全てソーシャルワーカーで解決してくれます。入院時病歴と退院サマリーはDictation(電話で口述録音したものを専門の方がワープロ打ちしてくれるので大幅に時間が短縮できます)後、翌日にはパソコン上で見れるようになります。 日々のカルテ書きは、データがインプットされたカルテをプリントアウトし、それに追記していく形で時間が短縮できます。

<外来>
全てのローテーションにおいて週に1-2回Family Medicineでの外来の割り当てがあります。半日枠が基本で、1年目は3-5人、3年目になると10人以上診察するようになります。クリニックのレイアウトは指導医が常駐する部屋の周囲を診察室が囲むような作りで、その部屋から研修医は診察室に出て行き、診察後指導医の所に戻り報告するという形式です。1年目の研修医の場合は症例報告後に指導医が研修医を伴って全ての患者に会ってくれるため、かなり濃厚な指導となります。研修医に対し憤慨したり、高圧的になることはまずなく教育的見地からの指導に徹します。というのも、研修医指導医双方が評価対象となっており、定期的にお互いを点数化するシステムの存在が大きいのかもしません。

<日本ではあまりみかけない○○> 
職種としては、採血専門技師、患者搬送スタッフ、食事搬送スタッフ、クラーク、Respiratory Therapist(人工呼吸器を管理してくれます)、Nurse Practitioner、Physician Assistant、ヘリコプターで患者搬送するスタッフ、特殊な検査や他科紹介仲介のスタッフ、IT機器指導員、など
その他の○○としては、IVH挿入や生検などはオーダーを書き放射線科医が行う、食事はレストランの様なメニューを見て患者が毎食電話でオーダー、ICUでは患者が変わるごとにカーテンまでも交換、金属のピンセットやはさみの使い捨てなどディスポーザブルの異常な多さ、ドクターズラウンジ(無料の飲食物が豊富に置いてあり、パソコンとテレビがありくつろげる)、医者に切れる患者の割合の高さ、無保険の患者の多さ(無保険でもERは受け入れなければいけませんが)、PalmやiPhoneの使用頻度の高さ(医療情報の確認のため)、ポケベル(未だに電話での直接の連絡はあまり行いません)、勤務時間以外では病院から連絡がほとんどない(対応しなくてもon callが対応する)、性格のいい人、その逆に性格のきつい人の多さ(様は極端な人が多い印象)、自宅での残務処理(電子カルテのため在宅で外来カルテ記入や検査及び処方のオーダーなどできる)、看護婦が患者の病歴、検査結果、投薬内容など把握している、看護婦によるオーダーや処方の代行、患者さんの窓口での支払いがない(後日保険会社から請求書がくる)、朝は早かったりするが夕方は定時帰宅、異常なまでの医療費の高さ(1週間入院で1000万円請求が普通にありえる)、救急車は無料ではない、専門医の種類の多さ、基本はネクタイ着用(日本ではいつもケーシーだった私)、でもon-callの時はなぜかみんな手術着(別名スクラブ)、スクラブや白衣のまま外にでる(帰宅途中スクラブでスーパーによっても誰も気にしません)、医者とコメディカルとの垣根は低い(医者でもいろいろと突っ込まれます)、専門医によっては予約が数ヶ月後、など

良い面悪い面あるのですが、一言で言い切ることはできませんし、個々人によっても意見の分かれる所と思われますので今回は敢えて良い面悪い面ごちゃ混ぜにして純粋に私の経験していている医療を書かせていただきました。一つはっきりと言えることは、莫大な医療費と豊富な医療従事者数の元でのみアメリカの医療は成り立っているということでしょうか。 またここに付け足すまでもなく、32才まで長崎弁しか離せなかった私の英語での苦労は絶えません。
以上だらだらとした文章となってしまいましたが、松本はアメリカでなんとか生き延びているとわかっていただければ幸いです。 最後になりましたが、長崎大学消化器内科の今後の更なる飛躍を心より楽しみにしております。

Department of Family Medicine,
Southern Illinois University in Springfield,
松本幸二郎

【2009年6月】

長崎大学消化器内科誕生及びホームページ開設にあたり、医局長より直々に「研究留学をして、その後そっちで医師になる決意をし米国医師になるまで」を書いてほしいとのご依頼をいただきました。教室にとっては放蕩三昧の私が留学記など書く資格はないと思いますが、手前勝手な行動の言い訳として読んでいただければ幸いです。

医師になろうと決心したのは高校2年生でした。まだ純粋であった私は青年海外協力隊のように発展途上国で働こうと決め、医学部進学を決めました。ですが、私の欠点である長期的計画能力欠如症候群(要は行き当たりばったり)がその後の私の人生に付きまとっていくとは当時は思ってもおりませんでした。医学部生になると高校生の頃の夢などすっかり忘れ去り浜口町で飲み歩き、卒後は長崎大学第一内科に入局致しました。その後、手技が多く面白いと思った消化器内科医を目指すと同時に、いずれは取得しないといけない状況であった博士号取得を早く済ませたいとの不純な動機で、卒後4年目で大学病院に戻って参りました。

大学に戻る前に勤務していた市中病院では消化器内科医を目指していたものの、できるだけ幅広い疾患とあらゆる手技に対応できるようになりたいとの思いが強く、医局や専門の垣根を超えてさまざまな先生方に教えを請いました。大学院在学中の天草でのアルバイト勤務の際も、島ということがあり、小児科、整形外科、皮膚科、泌尿器など様々な疾患を見る機会があり面白さを感じておりました。

そんな中、幸い学位論文が3年で出来上がり、大学院生活が1年残っていたため、先のことはあまり考えずにせっかくだから研究の実績を使って海外生活を体験してみようと思い、アメリカはシカゴのノースウエスタン大学に2年の予定で留学致しました。実際にアメリカの大学病院にやってくると、私の知らない世界がそこにはありました。多くの外国人医師が第一線でアメリカの医療を支えており、また外国人であるにもかかわらず、世界一であろうアメリカのレジデント教育の恩恵を存分に受けておりました。完成されても尚進歩していく教育システムと指導医の数など圧倒的な人的経済的資源の豊富さには正直圧倒されました。

また、こちらの医療を知るうちに、あらゆる疾患及びあらゆる患者に対応する家庭医療科に興味を持つようになりました。家庭医療科の第一心情である患者さんとの関係第一という姿勢も、患者さんと過ごす時間に生きがいを感じる私のスタイルと正に同じだと感じました。また非常に興味深いのは、アメリカの医師は勤務医、開業医問わず発展途上国への医療活動に積極的に参加しており、身近な医師がそれこそ日本と比較すると気軽な感じに見えるほど発展途上国に数週間行ったりしています。そこで、またまた先のビジョンが見えないにもかかわらず、アメリカで臨床医を目指す決断をしてしまった訳です。ですが実際は思うようにいかないもので、よくよく考えてみると(というかよく考えなくても私を知っている友人にとっては周知の事実ですが)医学生の頃の私は再試の嵐で友人からは再試リーダー略してリーダーと呼ばれており、自他共に留年せずによく卒業できたなと思われたその私が英語で外国の医師免許試験を受けるなど無謀な挑戦であることは火を見るより明らかでした。結局、研究業務以外の時間つまり夜と早朝は机にかじりつき、週末も図書館に行ったりと余暇が全くない生活を余儀なくされ、アメリカに来て多少なりともゆったりとした家族の時間を過ごせると思っていた妻の期待を大きく裏切り、日本にいた頃と変わらない仕事時間になってしまいました。研究留学と言う爪に火を灯す様な耐乏生活の中、夫は勉強ばかりで、海外で誰に頼れるわけでもなく乳飲み子を抱えた妻の生活は非常に過酷だったと思います。話は逸れますが、妻帯者がアメリカで長く生活していくキーワードは「妻」で間違いないと思います。でなければ私はとうの昔に日本に戻っています。

基礎医学、臨床医学、一日で12人の模擬患者さんを診察し診察ノートをその場で提出するというストレスフルな実技試験の3つの試験をなんとかクリアしました。その後アメリカでの臨床経験がポジション獲得には非常に重要であるということを知り、コネのない私は当たって砕けろで面識もない方々に連絡を取り臨床実習をさせてもらいに、数週間あるいは週末を使っての病院実習をさせてもらいました。見ず知らずの私に手を差し伸べてくださった先生方の優しさは非常にありがたく、私の目標達成に非常に大きなポイントとなりました。更には、ビザの問題などで計画が1年遅れたりもしたのですが、なんとか今年6月よりイリノイ州の州都、リンカーン大統領ゆかりの地スプリングフィールドのSouthern Illinois University家庭医療科にて3年間のレジデント生活を始める運びとなりました。

その時その時に自分の興味のままに進路を決めてしまい、なぜか今はこのような形で医療に関わっております。一流のレジデント教育システムの中で勉強でき、患者さんと一番密接に関わりあらゆる疾患を診る家庭医療科、高校生の頃の目標を思い出させてくれるアメリカの医療活動、そういった経験を通して今後またやりたいことが具体化されてくるのかもしれません。以上の様に私の医師人生は正に右往左往しておりますが、一貫していますのは患者さんが第一ということでしょうか。たまの臨床実習の際に患者さんと話をしていると「あぁ、ここが私の居場所だよな」と居心地の良さを感じる自分に何度も気付いたのですが、裏を返せば研究留学のお陰でその事が再認識できたのかもしれません。ですから、アメリカで臨床医を始める大きな不安はありますが、同時に臨床に戻れるという嬉しさがあります。

こちらに来てから何度となく長崎大学で消化器内科医として働いていた当時のことを思い出すのですが、私の心の中に染み付いている一つ言葉があります。臨床、研究、学生教育など多忙な生活の中で目の前のことをこなすことで精一杯の毎日、中尾一彦先生がおっしゃっていた「患者さんが第一。実験中でもなんでも患者さんに何かあったときはやってる仕事を投げ捨ててでも患者さんの所に飛んで行け!!」という言葉です。消化器班で身に付けた心は遠くアメリカにいても常に臨床医としての私の心の中心に位置しています。

本来であれば、アメリカで習得した研究技術を長崎大学消化器内科に持ち帰るのが私の使命であるにも関わらず、中尾一彦教授、市川辰樹先生はじめ消化器内科の先生方に「頑張って」とおっしゃっていただける私は幸せ者だと思います。

最後ではありますが、今後の長崎大学消化器内科の更なる発展を心より願っております。乱文失礼いたしました。