臨床活動
 われわれは単なる「麻酔をする人」ではなく、「全身管理のスペシャリスト」です。あらゆる疾患を持つ患者が手術を受けます。多くの場合は複数の疾患を持つ患者の全身管理を行わなければなりません。当然、ある疾患、臓器に対する治療は他の疾患、臓器にも影響を及ぼします。どの疾患、臓器の治療を優先すべきか、それにより全身においてどのような影響が起きるのか、全身管理を行うためには心臓だけ、肺だけ、腎臓だけの、一部の臓器の専門家ではいけません。心臓、肺、腎臓など全ての臓器が複雑に絡み合って絶妙なバランスを保ちながら人間は生きています。そのため全身管理のスペシャリストであるためには、まず始めに、頭の先から足の先まで人間の生体メカニズムを理解する必要があります。
 生体はあらゆる環境において様々な代償機構を働かせることで自らを守っています。特に危機的環境においてその働きは本領を発揮します。例えば、寒いところに行けば末梢の血管を収縮させることで外気と触れる血液量を減らし体からの熱の放出を抑制し、更に体を震えさせることで熱を産生します。逆に熱いところに行けば、末梢血管を拡張させることで外気へ触れる血液量を増やし、また汗をかくことで気化による熱の放出を促進します。危険な状況に置かれると自律神経の働きにより心臓の動きや血管の広がり具合を自動的に調整し、体内の各部位へエネルギーの源となる酸素をより効率よく供給できる体制を整えます。しかし麻酔下ではこれらの正常な人間の代償機構は強制的に抑制されます。その上で手術という大きな侵襲を加えられる生体を守らなければなりません。手術を必要とするような患者の多くは、それぞれが持つ病態に対して様々な代償機構を働かせることで生体機能を維持しています。そのため、代償機構が抑制される麻酔下においては、問題が起きて対処をするのではなく、問題が起きないように常に先回りして何も起こさないスタンスでいなければいけません。つまり「診断の確定=治療方針の決定」という手順が多い他診療科とは異なり、診断を確定する前に「病態の出現、悪化を未然に防ぐ」というスタンスが麻酔科医には求められます。必然的にマニュアルをただ順守、実行するのではなく、病態生理の理解を基に患者それぞれに応じた現状把握と今後の経過を想像し、根拠や理論を背景とした「論理的な思考」と様々な経験で得られた「感覚」を融合させた形で「治療」として実践していく能力が「全身管理のスペシャリスト」である麻酔科医には必要とされます。
 麻酔科医は「診断をしない医者だ」と言われることがあります。現在の医療で否定されがちな「対処療法を行っているだけだ」と認識している方もいらっしゃると思います。しかし麻酔科医の行う対処療法は、症状が出現する根本的なメカニズムを病態生理の理解に基づいて推察し、最善、最適な治療を行いながら症状出現のメカニズムを明らかにする「診断的治療」の意味合いでの「積極的な対処療法」です。病態の出現、悪化には当然何らかのメカニズムが関与します。そのメカニズムを推察しながら行う対処療法は、患者の病態、症状改善に必要なオーダーメイドな治療を行いつつ、逆算的に適切な診断に繋げることが出来ます。診断名から自動的に治療方針が決定される医療とは一線を画した、麻酔科医ならではの診療方針の意義は十分に理解いただけることと思います。