ごあいさつ
 
コラム  
 
 
就任の御挨拶(平成11年2月)
 

 平成11年1月4日付けで長崎大学医学部小児科学講座を担当する事になりました森内浩幸です。長崎生まれの長崎育ちで、長崎大学出身ではございま すが、過去10年以上長崎から離れており私に馴染みのない方が多いと思いますので、簡単に自己紹介いたします。私は昭和59年医学部卒業後、辻芳郎教授が 主宰されておられた小児科に入局いたしました。小児科を選んだ理由は一つの診療科で様々な角度から患者さんを診れることに魅力を感じた事と、何よりも小児 科の先生達がとても生き生きと、かつ楽しくお仕事されている事が感じられたからです。実を言いますと、卒業後すぐに海外青年協力隊に参加しようとして役所 を訪れたのですが、いくら何でも研修医を済ませてからが良いと言われて追い返されてしまったのです。その後4年間県内で小児科医として勤務している間に幾 つかの出来事が私に感染免疫の研究を志すきっかけを与えました。

 一つめは大村市立病院で経験した症例で、12才の女の子でしたが全身性の単純ヘルペス感染をおこし遂には消化管の穿孔にまで至りました。私は免疫不全も ないこの子にどうしてこのように重症のウイルス感染がおこったのか不思議でたまりませんでした。今ではその理由が少しはわかったつもりでいますが、この症 例は最初に私にウイルス感染の奥の深さを教えてくれました。二つめはその後赴任した佐世保の地で経験した風疹の大流行です。麻疹に比べると軽いウイルス病 だと甘くみていた私を嘲笑うように、この流行は多くの重篤な合併症を患児に与えました。この経験は私に予防可能な疾患が与え得る社会への影響の大きさにつ いての教訓を与えました。最後のきっかけとなったのはHIVの出現です。私の入局した時期はその後HIVと呼ばれるようになったウイルスが血液を介して感 染しAIDSを引き起こすことがわかっていながら、まだ加熱製剤が普及していない頃でした。小児科研修医として血友病の子ども達に血液製剤を注射し続け、多 くの患児が感染した事を知ったのもちょうどこの頃でした。

 感染免疫、それも特にウイルスについて研究したくなった私は辻教授や宮本前教授(細菌学)それに松本前教授(熱研内科)と御相談した上で仙台を訪れ、国 立仙台病院の沼崎義夫先生の元で2年半の間ウイルス研究の基礎からしっかり叩き込んでいただきました。その後アメリカに渡りNIHにおいてヘルペスウイル スの研究をスタートしました。幸いな事に妻昌子を共同研究者として二人で我武者らに頑張った甲斐があり、それなりの研究成果を上げることができました。 NIHは世界最大の研究機関であると共に大規模の臨床研究を行うための臨床施設があり、日本の病院では考えられない規模の臨床研究が行われ多くの患者さん が集まってきます。臨床討議会やセミナーに参加する内に臨床の勉強もしたくなった私はECFMGを受け幸な事に高得点で通る事ができた為、NIHで感染症 専門医のトレーニングコースを取る事ができました。NIHだけでなくジョージタウン大学や陸軍病院などをローテーションしながら、貴重な臨床経験を得る事 ができました。その後は研究対象をHIVに移し、NIAID(国立アレルギー感染症研究所)の所長であるDr. Fauciの元で研究に勤しむ合間にアメリカ国立こども病院に於いて臨床を続け、かれこれ8年少しもの間アメリカに滞在しました。アメリカで研究と臨床を 続け、ここまでかなと思った処で国内でも国外でも医療、それも感染症のコントロールを必要とする所で医師として働こうと思っていた私が、こういう形で母校 に帰って来た事に何か宿命のようなものを感じます。

 私自身は元々医学研究には全く興味はありませんでした。卒業前に研究を志す或る友人が「一人のフレミングの方が一万人のシュバイツアーよりも多くの人を 助けることができる」と言ったときに青年海外協力隊志望の私が返した言葉は「フレミングは一人いれば十分だけどシュバイツアーは一万人必要だ」という事で した。しかし現在の医学研究は極めて高度化し、個々の天才のみで階段状に進歩するというよりも多くの研究者の地道な努力の積み重ねによって少しずつ進歩し ていくものだとわかりました。一人一人の患者さんを一生懸命診ていく事も一つ一つの研究成果を医学の進歩の捨て石として頑張っていく事もどちらも大切な職 務です。大学医学部の臨床系の講座として、診療・教育・研究の三本柱を揺るぎないものにしていく事はとても難しい事ですが、教室の皆さんと力を合わせて頑 張ってまいりたいと思いますので、皆様方の御指導、御鞭撻を宜しくお願い申し上げます。


 
長崎大学小児科学教室
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