ごあいさつ
 
コラム  
 
 
日米の医療を経験して(平成11年4月)
 

 私は卒業後6年半の間日本各地の病院で小児科医として働いた後、渡米してウイルスの研究を行う傍ら、ECFMG(外人向けの一種の医師国家試験)に 通り感染症専門医としてのトレーニングを受ける機会を持ちました。8年間以上に及ぶアメリカ合衆国での生活のうち4年半の間臨床医として働いた経験は、単 に医学を学ぶ上で貴重な体験であっただけではなく、医療のあり方について考えさせられるものでもありました。

 アメリカ合衆国における医療のあり方で最も印象に残ったことは、『患者中心主義』とでもいうべきもので、単に倫理的に患者さんの健康福祉のために働くと いった通り一遍のことではなく、患者さんに全ての情報を与えた上で患者さんに医療上の決定を委ねるというものです。一人一人の患者さんはそれぞれに社会的 経済的背景が異なり、また個人的な価値観が違います。従って患者さんにとって最善の選択をすることができるのは患者さん自身であり、医療従事者はその決定 に必要な医学的事実を与えることが課せられます。このため医師は確かな臨床研究に基づいた数字を患者さんやその家族に伝えなければなりません。いわゆる 『Evidence-based medicine(確かな証明がなされた、また数字的に明らかな方法で検査や治療を行う医療)』が実践されている訳です。医師は、従って、しっかりと勉強 し間違いのないことを患者さんや家族に伝えなければ成りません。患者中心のあり方を象徴することの一つは、『カルテは患者のものである』という原則です。 従ってカルテのコピーをするときには患者さんの許可(しばしば弁護士を通じて)が必要でした。もちろん患者さんはいつでも自分のカルテをみることができます。

 同じような観点から医療を『サービス業』と考え、患者さんのニーズに答えるという姿勢もアメリカ合衆国では徹底しているように思いました。患者さんに不快 な思い、痛い思いはできるだけさせないということも、サービス業者には必須の心構えです。私自身抜歯のために歯科医を受診しました時、徹底した無痛管理の ために全く痛みを感じませんでした(おまけに治療中にヘッドホーンと特殊な眼鏡をかけて映画を鑑賞することまでできます)。胃カメラも全身麻酔下で知らな いうちに終わってしまいます。日本に帰ってからも健康管理のために毎年胃カメラを飲みますが、しんどいと言ったらありません。これではしっかりと検診を受 けて健康管理していこうという人が増えないはずです。脊髄穿刺も充分な前投薬と局所麻酔を受けるため、殆どの患者さんは痛みを訴えません。さらに小児科で の全ての処置は母親が側にいながらになされ、精神的にもこどもは恐れをあまり持ちません。病院の中、病棟の中には遊びの空間が多くみられ、電話もひとりひ とりに付いており、消灯時間もありません。患者さん用の設備(例えば図書室、体育館、音楽室、礼拝堂、プール・バーまで!)も充実しています。

 医療側でさらに感服しましたのは、多くの医療従事者が見事な『チーム・プレイ』をみせることです。医学の進歩とともに高度の専門化が進み、難しい症例にも 対応できるようになりましたが、それと同時に自分の専門外のことで何かと見落としがあったりするものです。アメリカ合衆国では、本当に多くの医療従事者が 一人の患者さんに関わって来ます。いわゆる主治医チームは指導医1名、レジデント1名、学生もしくはインターン1名からなります。これに加えて様々な専門 的な問題に対応するためにいろいろなコンサルタント・チームが診療に参加します。私自身も感染症専門のコンサルタント・チームの一員として働いていまし た。チームは中心になって動くフェロー(私がそうでした)とそのボス(教授、助教授クラスの人です)、さらにやはり学生かインターン1名が加わりました。 難しい症例ではこういうコンサルタント・チームが幾つも加わっています。また病棟薬剤師が患者一人一人の投薬内容を監視し、投与量の確認、副作用のチェッ ク、薬剤同士の相互反応などに気を配ります。病院疫学士(と訳していいのかどうか、つまりhospital epidemiologistsです)は院内感染を防ぐために様々な管理を行っています。ソーシャル・ワーカーは患者さんの社会的経済的諸問題の解決のた めに働きます。遊びも治療上で重要と、レクリエーション・セラピスト(遊びの専門家!)もいます。これら全ての医療従事者がひとつのカルテに記載していく 訳で、しばしば20人近い人がカルテを共有したりすることになります。実に密度の濃い医療だと言えます。

 こう紹介いたしますと良い事ばかりのようですが難点も少なからずあります。最大の難点は医療費が高いことです。これだけ多くの人が関与する訳ですから人件 費が嵩んだりして当たり前かも知れませんが、本当にお金の切れ目が命の切れ目となることもありえます。私はお金さえあればアメリカで患者になりたいし、お 金がなければ日本でがいいなとよく思ったものです。

 今こうして日本の医療の現場に帰って来て思うのは、善くも悪くも医師がひとりで忙しく(時として独断的に)立ち回り、いろんな意味で『えらいもんだ』とい うことです。制度の違いもありますし、国民性も違う訳ではありますが、アメリカ合衆国にみならうべきところはあるようです。せっかく二つの国で医療従事者 として働く機会を持った者として、また大学の小児科を率いる者として、今後の日本での医療のあり方について真剣に考えていきたいと思います。


 
長崎大学小児科学教室
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