原爆復興75周年記念事業報告

原爆復興75周年記念事業

「忘れな草」複製の作成

 「忘れな草」の出版の経緯については「忘れな草」の最終号に調来助先生が執筆されています。以下に第7号よりの抜粋を示します。第1号を1,100部、第2号を800部、第3号を1,300部、第4号を1,000部印刷されましたが、調家に1部残るのみで、すべて絶版となりました。原爆復興70周年を機に、ご遺族の思いが詰まった「忘れな草」全7号の復刻版を作製いたしました。100部作製し、全国の図書館に配布しました。ご遺族の方には配布できず、70周年の遺族懇談会にてご希望の方には複製をお送りしました。大変喜ばれましたので75周年を機に100部複製を作成し、ご希望の方に配布することとしました。

以下、第7号より抜粋  銅板名碑建立の際に、遺族の方々から寄せられた寄付金に余剰を生じたので、私は遺族の皆様から原爆思い出の手記を書いて頂き、これを集めて小冊子を出版することとした。
 私はその小冊子を「忘れな草」と命名したが、漢字で書けば「勿忘草」、英語ではforget-me-not、新版世界大百科事典を繙くと、この草は春から夏にかけて藍青の可愛らしい花をつけ、花言葉は「真の愛」とのことである。原爆の犠牲となった我が子、我が兄弟を忘れず、真の愛の心をもって永く冥福を祈るという意味で命名したと思う。
 「忘れな草」は、私(調)が編集を担当し、私の家(長崎市本原町一-二九)にある「旧長崎医科大学犠牲学徒遺族会」から発行することとした。
 「忘れな草」の本来の使命は、原爆に対する一般の認識を深めるために、愛児を亡くされた御両親の悲壮な思い出を書いて頂くことにあったが、併せて当時の長崎医大の学生達が、どんな状態で原爆の犠牲になったかを、政府当局の方々にも知って頂くように心がけ、それを遺族達に報告することとした。
 以上の目的を果たすために、私は色々の資料を集め、一回だけ発行する予定であったが、各方面に多大の好評を博し、手記の寄稿が後を絶たなかったので、昭和43年から52年までの9年間に、6冊を発行するに至った。従ってこれが第7号に該当する。

(原爆復興70周年記念事業報告「忘れな草」復刻版の作成)
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