扁桃体のフィードバック抑制回路の機能不全によるトラウマ記憶の増強
Matsumoto et al., Front Mol Neurosci (2024)
- SLITRK4欠損マウスでは恐い体験を記憶する脳の機能が強くなっている
- SLITRK4がなくなると扁桃体シナプスの可塑性が大きくなる
- SLITRK4は扁桃体でフィードバック抑制を行う神経細胞が産み出される過程で働く
- ヒトのSLITRK4は PTSD患者で発現が変化することが報告されている
怖かった体験をしっかりと記憶しておくことは、私たちが危険を避け、身を守るためにとても重要な脳の機能です。一方で、極めて辛い体験をした後に、長い時間が経過しても悪夢をみたり、その辛い体験を再び体験しているかのような反応が心や体にでてしまったりすることがあり、これを心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorder, PTSD)と呼びます。
実験動物を用いて怖い体験の記憶(恐怖記憶)の獲得が、どの脳の領域やどの神経回路でなされているのかについての研究が数多くの研究者によりなされてきました。その結果、扁桃体(amygdala)と呼ばれる脳の領域が重要な働きを持つことが分かっています。この研究で私たちは、扁桃体の中の恐怖記憶を司る神経回路の成り立ちに私たちが研究を続けてきた脳の膜タンパク質の1つSLITRK4が必要であることを明らかにしました。この研究成果はPTSDの病態の理解や治療法の改善に貢献するものと期待しています。
以下に具体的な研究の内容を紹介します。
まず始めにSLITRK4がどのような脳の機能に関わるかを知るために、Slitrk4を欠損するマウスを作製し、その行動全般を調べました。その結果、1.社会行動、2.嗅覚に関連した行動、3. 恐怖記憶に関連した行動、の3種類の行動に異常がはっきりとした異常が認められました。マウスの脳の中でSlitrk4タンパク質がどの領域で多く産生されているかを見てみると、嗅覚に関連した領域や扁桃体で多く発現していたことから、今回は扁桃体におけるSlitrk4タンパク質の役割について研究を進めました。
今回私たちが行った恐怖記憶を調べる行動実験は音刺激と不快刺激(電気ショック)を組み合わせることにより、音刺激だけを与えたときにどれだけおびえている動物に特徴的な行動(すくみ行動、じっと動かない状態)がどれくらい表れるかで恐怖記憶の強さを評価しています。
そこで共同研究者の三輪秀樹先生(群馬大医、現国立精神神経センター)が扁桃体を含む脳のスライスを作製して、音の情報が入ってくる神経線維を特定の条件で刺激することにより、長期間続くシナプスにおける情報伝達の効率の変化を調べました。すると、SLITRK4欠損マウスの扁桃体では長期間続く伝達効率の上昇(長期増強, long-term potentiation, LTP)が強くなっていることがわかりました。次に抑制性シグナルを担うGABA受容体の阻害剤がある状態ではこの効果は消えたため、GABAを介するシナプス伝達がSlitrk4欠損マウスで減弱していることが明らかになりました。その中でもフィードバック型と呼ばれるタイプのGABAを放出する神経細胞(GABA性ニューロン)の働きが低下していたことがその後の解析でわかりました。
GABA性ニューロンには様々な種類があります。そこでどの種類のものが変化しているのかをマーカー遺伝子やタンパク質を利用して調べたところ、カルレチニンと呼ばれるマーカーを持つグループのGABA性ニューロンがSLITRK4欠損マウスの脳で減っていることがわかりました。
扁桃体にあるカルレチニン型GABA性ニューロンの一部は、脳の発生の過程で背内基底核隆起(dorsal medial ganglionic eminence, dMGE)というところにある若い細胞がソニックヘッジホッグ(Shh)というタンパク質の影響を受けてできることが知られています。
そこで、SLITRK4を持たないES細胞から培養皿の中で幼若な神経細胞を人工的に作製しました。この細胞にソニックヘッジホッグシグナルを強める薬を作用させたところ、SLITRK4を持つ細胞と持たない細胞の間では産み出されたGABA性ニューロンの種類が異なることが分かりました。
以上の結果をまとめると、下のようになります。
- SLITRK4はソニックヘッジホッグシグナルの影響を経てカルレチニン型のGABA性ニューロンが産生される過程に必要である。
- SLITRK4がないと、カルレチニン型のGABA性ニューロンが減るために扁桃体のフィードバック型ニューロンになるべきGABA性ニューロンが減る。
- そのためSLITRK4欠損マウスでは扁桃体のシナプスの性質に変化が起き、恐怖記憶が強く形成されるようになる。
これらの結果は、どのような医学的な意義を持つのでしょうか。
最近、PTSDの患者群を対象にしたmRNAレベルの遺伝子発現状態の変化の調査(トランスクリプトーム解析)でPTSDの患者ではSLITRK4の発現が変化していることが2つの研究グループから報告されています。私たちが報告した研究結果はSLITRK4がPTSDの病態と関わる可能性を実験動物レベルで示したものと言えるでしょう。また、細胞の分化におけるSLITRKファミリーの役割はこれまでにあまり知られていませんでしたが、この点にも新たな光を当ててているのかもしれません。