医学部の歴史

医学部の歴史

わが国の医科大学及び医学部の中で最古の歴史を有するのが長崎大学医学部です。

 1857年(安政4年)11月12日に勝海舟,榎本武揚らが学んでいた海軍伝習所の医官であったオランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトが長崎奉行所西役所(長崎県庁旧所在地)において日本人に医学の講義を開始しました。これが医学部のはじまりです。

 ポンペの医学講義は,はじめに動植物学,物理学,化学等を教え,ついで解剖学,生理学等の基礎医学を学び,そして内科学,外科学などの臨床各科目に進むという系統的な講義でありました。すなわち,わが国における近代的医学教育はポンペによりはじめて長崎の地で行われたのです。1859年(安政6年)9月9日にはポンペの指導のもとに21人の医学生がわが国はじまって以来,最初の系統的人体解剖実習を行いました。そして,1866年(文久元年)9月21日ベッド数120 ,給食設備をもつ木造2階建2棟の病院(小島養生所)が設立されました。この養生所は,わが国初の近代的病院であり,現在の長崎大学病院へとひきつがれています。

 この医学伝習所及び小島養生所で学んだ人々が明治維新以後の医学教育,医療保健行政の創設者,指導者となったのであり,わが国の医学のすべてのルーツは医学伝習所にあったと言っても過言ではありません。その後,伝習所は精得館,長崎医学校,長崎医学専門学校,長崎医科大学へと発展継承され,1949年(昭和24年)の学制改革により長崎大学医学部となり現在にいたっています。

 1945年(昭和20年)8月9日,長崎医科大学(当時)は,原爆に被災し壊滅的な打撃をうけ,角尾晋学長以下 1,000名にもおよぶ教職員学生を喪いました。この苦難の時代にあって大学は,長崎市内また諌早市へと転々としながらも医学教育研究診療を続け,不死鳥のごとくよみがえり,1954年(昭和29年)に医学部が新築され,先輩達が学んできた坂本の地に復帰し、現在に至っています。

 長崎大学医学部は21世紀の医学を創造し,人類の健康を守るために力をつくし,そしてわが医学部の歴史と伝統に新たな栄光をつけ加えてくれる若人の入学を心から願っています。

 その昔,若い高野長英が,若き勝海舟が,そしてまた多くの俊英が長崎で学んだように,若人よ長崎へ来たれ。

ポンペの言葉

医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上,もはや医師は自分自身のものではなく,病める人のものである。もしそれを好まぬなら,他の職業を選ぶがよい。


ポンペ顕彰記念名板(医学部玄関ホール)